iPad miniは楽しいことをさらに楽しくさせる

  • 4月末に念願のiPad mini 6を購入して生活の楽しかった部分が勢いを増して楽しくなっている。長期休暇にアルバイトに励んで経済的な余裕ができていたという状況下で、アルバイト先の先輩が同機種を買ったという発言に背中を押され、思いたった翌日には京都のアップルストアiPadを手にしていた(アップルストアはかつてないほどしんどい接客だったのでこれからは配送で注文しようと思う)。iPadを買うことで後悔することはなくて、あるとしたら保護フィルムを貼るときに目立つ気泡が入ってしまったときくらいだと思う。僕は細心の注意を払って作業に取り組んだため、ノー気泡でフィニッシュ。優勝しました。iPad miniは生活に圧倒的に向上させてくれることはないけれど、YouTubeNetflixなどの映像視聴やSpotifyでの音楽視聴、Kindleでの読書など、これまで楽しくやってきたことをさらに楽しくしてくれる点が優れている。
  • Pavementの「Harness Your Hopes」を口ずさめるように練習していたけれど唇がもつれてしまうばかりで諦めることにした。
  • BRUTUSの合本『花と花束。』に掲載されていたMAESTROという花屋でエディブルフラワーで飾られたソフトクリームを食べに行った。ショップでは母の日のためのアレンジメントを販売していたので、ちょうど翌日帰省する予定もあたこともあって、母へのギフトを買った。贈ったら喜んでくれたし、写真を撮っていた(多分インスタグラムにアップする)ので良かったと思う。
  • 実家へ帰ったら父が開口一番に「アーニャかわいい」と言っていて、珍しかった。「大丈夫ます」と真似をしていて高2の妹と共鳴していた。
  • ゼミのグループワークで夜に電話をする機会があり、作業が終わってからも数人で深夜まで雑談をした。ある中学校の2年生のクラスを追ったドキュメンタリー『14歳の栞』を紹介したところ好評で、その良さを熱弁したらみんな観たいと言ってくれて嬉しかった。出町座ではもう上映していない。
  • 彼女の大学は連休中も講義があるらしく僕が帰省するタイミングでデートができそうになかったので、彼女の登下校にのこのこ付いて行って、彼女が講義を受けている間構内で時間をつぶしたりしていた。興味のある講義があったのでもぐってみようと企んでいたところ、入る教室を間違えてしまい、せっかくのもぐりチャンスを逃してしまった。惜しい。かなり惜しいことをした。彼女の友達にも挨拶ができて楽しい時間を過ごせた。
  • 高校生の頃のバスケットの試合のビデオを観ていたら案外面白くて日をまたいでしまった。インスタグラムのストーリーズの親しい友達機能を用いて、当時のチームメイトにナイスプレーなシーンを共有したところ、「俺も観たい」とのリアクションがあったので、YouTubeにアップロードしてみようと考えている。みんなも気軽に観れるので喜んでくれるはずだと思って、実家からディスクを持ち帰ってきた。さっき外付けブルーレイドライブを注文したので、適当に時間を見つけて作業をしたいと思っている。また彼らをバスケットができたらとても幸せだと思う。
  • 田豊史『映画を早送りで観る人たち』の第4章で、作品の評論家はさまざまな分野・教養に通じたジェネラリストであり、彼らの評論は「"知の運動神経"披露会」と表現していた。ここではZ世代はジェネラリストでなく特定の分野に秀でたスペシャリストに魅力を見出す(コスパがいいから)みたいな文脈で取り上げられていたが、たまに評論がマッチョにみえるときがあるなと思った。とはいえ、それはマッチョな人が述べているからだ。
  • 僕は高校3年生の秋までバスケットボールというスポーツに打ち込むことができて、そこである程度暴力的な行動をしたいという欲求を解消できていたのでよかった。ディフェンスのプレイヤーを力づくで押しのけてポストアップしてボールを寄こしてもらったり、身体をぶつけてシュートを止めたりするのってまさにそうだった。
  • Twitterでファッションを中心に取り扱うアカウントをフォローしたりリストに追加したりして参考にしているのだけれど、彼らはファッションが好き”なのに”インターネット(Twitter)をしていて社会性がないみたいなスタンスをとっている一方で、高頻度で対面で交流していてかっこいい。インターネットで趣味の合う知り合いを見つけて実際に会って遊ぶという一連の流れをスマートにこなしている。これはファッション界隈に限らずあらゆる界隈で起きていて、それは望ましく、正しいような気もするけれど、息苦しくも感じる。僕がインターネットを特別視しすぎているのかもしれない。Z世代だからモノよりコト。消費より体験。インターネットは道具のひとつ。はい。
  • 目の前の人と話しているとき、”社会のみなさん”を加味した言葉がこぼれ落ちそうになることがあって、たしかにそれは正しいかもしれないけれど、別に社会のみなさんのために話しているのではないし(もちろんそうすべきケースも往々にしてあるが)、僕と目の前の人のために話しているというごく当たり前のことをしばしば忘れがちになることを忘れてはならない。