山とか

いつ崇高なものを体験したのか。美学の成り立ちと人類の進歩について語る教授の言葉を、階層化して Scrapbox へ打ちつけながらそのことについて考えていた。アイザック・ニュートンからブルシット・ジョブまで続くとりとめもない話題を、階層構造に押し詰めていく作業は崇高じゃなさそう。壮大なもの、圧倒されるものを目の当たりにしたとき、自分の存在があまりにもちっぽけなものに感じられる。それを崇高(subline)と呼ぶのだと説明された。その最たるものは、宇宙なのだとか。あとは、山とか。

キャンパスまでの道でゆうらん船の作品を聴いていた。春の嵐のなか部屋で大きな茶碗を抱えているところから、川を泳いで山に潜って狼煙をこさえる視点にジャンプする「山」という曲がある。このイントロを聴くと『森、道、市場 2022』で聴いたゆうらん船の演奏を思い出す。あのときの高ぶりは空間を共有していないと味わえなかった。これまで、場をともにしなかったことで逃した高ぶりが数えきれないほどあるんだと思う。ほくほくの根菜とじゅわっとした豚肉で満ちた豚汁でご飯をかきこむ生活から、川とか山とかへジャンプできないというか、せいぜい近所のコンビニで精いっぱいという感じがする。

テレビアニメ『ゆるキャン△』のシーズン1を昼食をとりながら観終えた。『ゆるキャン△』はどうやって富士山を望むのかという作品です。ずっと富士山の見方についての話をしている。あとはたき火。いかに暖をとっていくか考えたりもしている。11月になってぐっと寒くなってきたので俺も自分の暖のとり方について考えなければならない。お前はお前の暖をとれ。

もういちど、崇高について。美学の領域の学術的な用語としては理解できていないから、憶測・漠然とした感覚としての崇高さについてでしかないけれど、まずソーシャル・メディアでは崇高について知り得ないと思う。無理。ここでは Twitter を念頭に置いています。昨晩の Twitterスペース でもさっさとツイッター辞めろという話をしていた。Twitter の機能でそんな会話をすんなよという話でもある。現時点で僕はユーザーとして明白に消費されている側なので、その位置からフェードアウトしていきたいという試み。電話番号を交換して、ブログを書く。たまに電話をする。気が向いたら会って話す。そこからやっていかないと、生活から山へ、海の外へ、自分が想像できないところへジャンプすることはできない。視界が開けるのもジッと待っていてもスマホをやめない限り霧は晴れない。

欲しいと思った財やサービスは、自分がそれを欲しいと思わされていると認知したうえで金を払う。needs で購入するものはほぼなくて desires で消費している。野菜は needs。ちゃんと買って調理して食え。

明日は祝日で授業も休みらしい。はじめてサロンを予約してネイルアートを施してもらうことにした。そういえば YouTube にハイビジョンで公開されている、1998年のプレーオフで左ポストからフェイド・アウェイを放つマイケル・ジョーダンは崇高と言ってもいいと思う。もしあのプレーを目前にしてしまったら、いったい私はどうなってしまうんだろう。