追憶だけをしない

1年前くらいからキャンパスの駐輪場に喫煙スペースが設置された。僕が入学したタイミングで構内での全面的な禁煙が取り組まれたみたいなんだけれど、敷地外や道端での喫煙が取り組まれる結果となってしまったみたいで、現在は「卒煙スペース」というほんとうにわけのわからない名前で運営されている。わけのわからない名前とはいえ、煙草を吸うための場所を設けるのは良い取り組みだと思う。自転車を置くだけの場所だったところに、煙草に関係のある人たちが集まるようになった。今朝も自転車で登校したら、数人が卒煙スペースで喫煙をしていた。くたびれた白色の制服を着た清掃員が吸い殻入れからごみを回収していた。銀色のトングを持った警備員が吸殻を拾い集めていた。

いつもより早くSAを担当している授業の教室に着くと、先週声をかけてくれた女の子がいた。彼女に声をかけて、数回前の講義の内容について自分の理解している範囲で話したら、ある程度解決できたみたいだったので良かった。自分よりも若い学年の演習にアシスタントとして参加できたら、通常の講義や同じ学年の人たちとのゼミとはまた違う体験ができるかもしれないと思ったので、先生に直談判してみてもいいかもしれないし、時間のゆとりを持たせるためにしてみないほうが身のためかもしれない。これまで年下と関わることがあまりなかったので、うまく気に入られにいく技術を身に付けたいというそういう話もあります。かわいがり・かわいがられについてって組織行動論の範疇にありますか。

組織論の教科書を読みながら学部の講義が始まるのを待っていたら、後ろの方の席で雑談が始まったので読書を放棄して聞き耳を立てることにした。同じコミュニティの人たちの中で誰と誰が交際しているのかという話や付き合うに足る存在であるかどうか、交際に踏み切るタイミングが早いのは”すごい”という内容だった。どう”すごい”のかを共有していた。あと相応かどうかという議論もあって、たしかにそういう話もある。こうした自分と関係のないコミュニティのプライベートの話がおもしろく聞こえるのって、話している人たちや話されている人たちのパワー・バランスがうかがえるからってところがある。断片的な情報からその人がどんな人か・どんな人だと思われているかが浮かび上がってくる。でもなんか実際に自分が関わっている人ですらきれぎれの情報をまとめたものとして捉えてるってところあるよね。それだけじゃないけど。ちなみにこの授業はおもしろくて、今日の講義だと、需要と供給で適正な価格が決まるのではなくて、私たちには妥当な価格が共通認識としてあってそれが価格を決めるって立場の人の話を、バブル崩壊直後に土地の価格が”不当に”上がった例(不当に上がることはないはずだから)から説明していてエキサイティングだった。

6月になった。梅雨の季節の蒸し暑さを感じると、日光が入らないようにカーテンを閉め切った体育館で蒸されて汗をぽたぽたこぼしながらバスケットボールしていた記憶がじわじわ浮かび上がってくる。湿気でバッシュのスキール音が大きくなる。こうしたエピソードの記憶ってコロナ禍の部分で抜け落ちている。当時から、将来のある地点から眺めたときに参照すべき記憶が不在である状況に強く危機感を覚えていた。なにもなかったことになることが不安だった。危機感とか不安とかなくなったけど、実際なにもなかったことになった側面が大きい。それが問題かというとそんなこともなくて、ただそういうことだったというだけ。過去のおれが思っていたよりもおれは追憶で成り立っているわけじゃなかったし、少なくともそういうことにしたいし、恋に遊びに仕事に勉強に大忙し、つまりなにかに没頭している・しようとしている状態にもっていこうとしている。