Spring Reading 2023

これは大学3年生の春休みに読んだ本の記録です。

世界と私のAtоZ

竹田ダニエル『世界と私のAtоZ』講談社

Z世代の間で「Z世代のZは、人類最後の世代を表すZ」というジョークが交わされるほど、Z世代の多くが家庭を築いて子どもを持つ将来像を描きづらいと感じている。若者が置かれているつらい状況を変えなければと、連帯してアクションを起こしている大人も一部にはいるものの、若い世代のことなど考えず、資本主義的な成長ばかり優先してきた上の世代の大人たちの罪は重い。

セルフケアや消費社会や労働との向き合い方、SNS利用の動向など、アメリカに住む著者の視点から、アメリカにおける「Z世代的価値観」とは何なのか紐解かれている。セルフケアとしての試みが資本主義にとってより望ましい歯車になるための過程になっているという指摘や、先の見えない社会やすべてが自己責任とされるプレッシャーから、スピリチュアルな実践や「YOLO(You Only Live Once)主義」が醸成されているという意見は、興味深かったし、身に覚えもあった(ただこれが「Z世代」的感覚なのかというとそれはわかんないかも)。

昨年読んだ稲田豊史『映画を早送りで観る人たち』をはじめ、ここ最近のウェブ記事などでは、「Z世代」を「なにを考えているのかよく分からないデジタルネイティブの若者」のあるあるを共有するときに使うコピーとして用いられているような気がしていて、「Z世代」の用法について気にかけているので手に取った。本書では「社会に対して目を向け、常に自分と向き合い、誰もがよりよい社会も目指すべきだ」という価値観として「Z世代」を捉えている。かなりでかい話だ。

著者による「#Z世代と資本主義」と併せて投稿されるツイートがおもしろくて、それが本書を手に取るきっかけになった記憶がある 資本主義社会をベースとした「ご褒美文化」に関する投稿 がめちゃおもしろい。

2月5日。

離陸

絲山秋子『離陸』文藝春秋

「一緒になることを先に決めて、どこに行くか、どうするかなんて後から決めればいい。イローは考えすぎだよ」

中部国際空港の待合ロビーでタイへ飛ぶ飛行機の出発を待っているとき、友人がこの作品を気に入っていると言っていた/書いていたのを思い出してダウンロードした。帰国して下宿先で読み終えた。おもしろかった。

たしか高校生のときに『イッツ・オンリー・トーク』と『海の仙人』を読んだことがある。『海の仙人』を読んでからずっと水島へ行きたいと思っている。行こう。

「彼女のことを思い出すとき、人間の記憶は時系列じゃないんだな、と思う」という一節が印象深い。たしかに。佐藤弘はあまりに悲しい出来事に直面し続けているのに、くさらず人生をやっていて、かなりかっこよかった。

2月16日。

村に火をつけ、白痴になれ

栗原康『村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝』岩波書店

この本をかいているあいだに、かの女ができた。三年ぶりだ。まだつきあいたてということもあって、ひたすら愛欲にふけっている。好きで、好きで、好きで、どうしようもないほど。セックスだ。もちろん性的衝動もおおきいのだが、とはいえそればかりじゃない。心も体もマジでぶつかればぶつかるほど、わかってくるのは、ひとつになっても、ひとつになれないよ、自分とはまったく別人であるということだ。

引用しているのは、本書のあとがきの書き出し。著者である栗原康は、これを書いているとき、かの女ともりもりセックスしているということを伝えられる。すごい。これは伊藤野枝の伝記である。友人から貸してもらった。

とにかくわがままに、好き放題やっていた伊藤野枝が魅力的に描かれていてとても引き込まれた。実際魅力的な方だったのだと思う。それは、栗原康の軽快な書き味がなせる業で、彼が伊藤野枝を引き立てているというレベルじゃなく、どちらもがおんなじくらいウリウリやっている。

はじめにで提示された「もはやジェンダーはない、あるのはセックスだけだ」という言葉も、読み終わる頃にはしっくりきているというか、腹に落ちてくる。

2月19日。

ナリワイをつくる

伊藤洋志『ナリワイをつくる 人生を盗まれない働き方』筑摩書房

自分自身の眼球や耳、あるいは肌で「なんかありそう」ということを感知できるように感覚を研いでおくことが一つの鍛錬である。 p. 128

友人と催した読書会の課題書1冊目。いちど読んだことがあったが、再度読み返した。同じ本でも感じることや考えることが変わってくる。

本書で提示されている「ナリワイ」という働き方を頭のどこかに置いておくこと、さらにはそれを実践しようとする感覚を研ぎ澄ませておくことは、自分の人生を豊かにしうると思った。いくつかの事例を読んでいくと「こんなのむりでしょ」と思ってしまうが、それは「ナリワイ」を捉える力の鍛錬が足りていないからだろう。

消費社会は人間関係のつながりを希薄にするという指摘も忘れないでおきたい、というか、いかに仲間をつくっていくか考え続けていきたい。それが「ナリワイ」にもつながるかもしれない。

本書では、ナリワイを「弱いコンセプト」と位置付けているが、コンセプトの強さ・弱さを、一般的なフライパンと仕切り付きのフライパンで例えたのはけっこううまかったと思う。

あとこれは前回読んだ時も感動したんだけど、とある島の集落で支出のかからない暮らし、つまり年収が低くても成立する暮らしをすることで、奨学金を受けやすくするという方法がかなりイカしていると思った。そもそも奨学金の制度で考慮されている働き方が狭義のものだということ。

2月22日。

夜這いの民俗学・夜這いの性愛論

赤松啓介『夜這いの民俗学・夜這いの性愛論』筑摩書房

結婚と夜這いは別のもので、僕は結婚は労働力の問題と関わり、夜這いは、宗教や信仰に頼りながら過酷な農作業を続けなければならぬムラの構造的機能、そういうものがなければ共同体としてのムラが存立していけなくなるような機能だと、一応考えるが、当時、いまのような避妊具があったわけではなく、自然と子供が生まれることになる。 p. 32

これに対して農村地帯で刊行されている夜這いその他の性民俗は、非登録、無償を原則としたから、国家財政に対しては一文の寄与もしなかった。政府は国民道徳との背反を知りながら、この巨大な税収減を放置できず、農村の隅々まで仲居、酌婦、芸妓を普及させ、料理屋、風俗旅館、酌婦宿などの機構を通じて収奪を強行した。p. 75

本書では戦前までの日本のムラ社会で行われていたという夜這い、筆下ろし、水揚げといった性民俗について、筆者が見たり聞いたりあるいは実際に体験したりしたことをたよりに語られている。とくに前半に収録されている『夜這いの民俗学』は、ムラの性生活について簡潔にまとまっていて読みやすかった。

かつての日本のムラでは男女ともに性が開放的でありよかった、というような書きぶりだが、ムラという共同体に所属する個人には性の権利はなかったともいえそう。現代は性が個人的なものになりすぎているということですか。あと戦後女性たちがムラを離れてマチへ働きに出ていたとあるが、これは村落共同体の性生活が特に女性の自由を剥奪していたからという側面はかなり大きいような気がする。

ムラや都市を渡り歩いて夜這いなどの"自由な性生活"を経験したという筆者の語る当時の様子は迫力があり、生々しかったので、読めてよかった作品。あと、ふたつめに引用した、国家が夜這いといった性民俗をマーケット下におこうと奮闘した話もおもしろかった。

2月26日。

メディアの生成 アメリカ・ラジオの動態史

水越伸『メディアの生成 アメリカ・ラジオの動態史』同文舘出版

重要なのは、非日常化した時点でのメディアの表層の動態だけではない。それまで意識されないでいた日常的なメディアの体制的構造性、生活文化に組み込まれたメディアが発揮する広義の政治経済性もまた、対象化して捉えていく必要があるのだ。この視点が抜けおちると、メディア論は、私たちのメディア・イメージと同様、想像力や歴史社会性を欠落させたまま、ときどきの条件によって現れたり、消えたりするあだばな的な議論に終始してしまう危険性があることを忘れてはならない。 p. 281

ラジオは、エーテルをめぐる想像力に富んだ、マニアックでブリコラージュ的な喜びや遊びの精神と、商品化されたソフトウエアを大衆に向けて供給しつづける産業的システムとの絶え間ないせめぎあいのなかで成立してきた。メディアは、世界を枠付ける道具であると同時に、私たちが世界にはたらきかけるための道具として機能していくような多義性をもたなければならない。 p. 288

映画『ヴァスト・オブ・ナイト』では、かっこいい眼鏡をかけた電話交換手・フェイが何度も回線をつなげている。彼女の華麗な手さばきをみて、メディア史の期末レポートを書くときに手に入れた本書をまだ読み切っていなかったことを思い出した。

本書では、アメリカで萌芽したラジオというメディアがどのように成立していったのか、さらにラジオの生成がテレビジョンをどう規定していったのかについて述べられている。序章で、本書では「コミュニケーション・テクノロジーはメディアを結実させるための核ではあるが、しかしひとつの要因にすぎない」ということを前提とすると宣言されているように、ラジオという技術がメディアとしてどのように社会に位置付けられていったのかについて語られている。様々な用法を想像されたラジオがひとつのメディアとして確立していく様子や、ラジオとほぼ同時期に想像されたはずなのにあくまでその発展形として捉えられたテレビジョンの萌芽期の様子が描かれていておもしろい。

特におもしろかったのは、終章「再帰 テクノロジー・メディア・社会」。「積層したメディアは、新しいメディアの様態に、大きな規定力をもつようになる」だとか、「ひとたびメディアのありようが定着してしまうと、メディアが生成過程においてはらんでいたさまざまな可能的様態と歴史社会的な契機が、驚くほど簡単に、人々の意識のなかから姿を消していく傾向があること」など、既存のメディアによって人々の想像力が奪われてゆくことについての記述がよかった。ふたつめに引用したやつは、終章の最後の段落の文章なんですけど、かっこよすぎる。

あと最近ちくま学芸文庫で文庫化されたらしい! あっちのほうが表紙かっこいいな~!

2月27日。

メディアの文明史 コミュニケーションの傾向性とその循環

ハロルド・A・イニス『メディアの文明史 コミュニケーションの傾向性とその循環』筑摩書房

コミュニケーション・メディアがもつ性格は、時間概念か空間概念かどちらかを過大視するのに都合のよい文明傾向を生み出しがちであるが、それらの傾向はほとんど間髪を入れずに他のメディアの影響力によって相殺され、安定が達成される。 p. 125

機械化が印刷産業へ及ぼした影響は、〈一時のもの〉の重要性が増していくことのうちに明らかであった。浅薄さが多数の人々のたがいに異なる要求を充たすのに欠くことのできないものとなり、要求を充たすことを無理強いする人々によってひとつの芸術として発展させられた。ラジオは〈一時のもの〉や浅薄なものの重要性を際立たせた。 p. 150

教育は「なんらかの信条に向けて心を養成することなく、徳への心遣いや礼儀への心遣いさえ欠いたとたんたんなる読み書きの技術」になりがちである。

われわれは、力の源泉として機械化された知識の意義と、それが国家の道具を介してする力の要求に服従していることを認めざるを得ない。p. 344

本当の大学が果たさねばならない二つのもっとも本質的な機能、(中略)組織・方法・編成のなかで多かれ少なかれ果たしてきたそれは、数年間であれ生涯を通してであれ学究の生活を可能にすることと、その期間を通じて教師と教師、教師と学生、学生と学生を差し向かいの生きた関係にもたらすことである。 p. 368

読み通すのにひと苦労した! 言い回しになれていなくてヘトヘトになりながら読んだけれど、大学入学時には読みきることすらできなかったと思うから、本を読む力(ここでは最後まで目を通す、くらいのニュアンス)がついたといっていいでしょう。

イニスは、コミュニケーション・メディアには、技術的・物質的な傾向性(bias)が潜在しており、その特性が社会の性格を規定すると主張している。さらに新たなメディアの台頭は、既存メディアの特性に影響を受けた社会を変容させ、社会に新たな傾向をもたらすという。羊皮紙が支配的だった社会に、紙が現れることで、交易や都市の成長、あるいは自国語の台頭を支えた。ラジオやテレビジョンはその即時的な機能と限られた送り手と大量の受け手という構図を生む点で、中央集権化を際立たせた。イニスは、現在のメディア環境をどのようにとらえるのでしょうか。

本書でなんども強調されていたのは「口承」、つまり対人で行われる声によるコミュニケーションだった。イニスはラジオやテレビのようなマス・メディアの誕生による視聴者への影響と、本や新聞といった他のメディアへの副次的な影響をひどく危惧していただけでなく、印刷産業によるむやみな紙媒体の出版さえも懸念しているようだった。「口承の力は書かれた媒体がもつ傾向を抑制」する。「あなた」と話し合うこと。

前半では、コミュニケーション・メディアの傾向性について、粘土板の時代からラジオやテレビジョンの時代まで、網羅的に記述されていて、何が何だかわからなかった。後半では、現行の大学制度に対した批判的な意見が記述されていて、めっちゃアツかった。「批判的検討」と「付録2 成人教育と大学」のパート。この部分だけでも(サクッと読めるし)読んでみる価値はあると思う。

webちくまで『メディアの生成』の著者でもある 水越伸による『メディアの文明史』の解説 が掲載されています。これを読むだけでもじゅうぶんおもしろい。

3月5日。

女が死ぬ

松田青子『女が死ぬ』中央公論新社

女が死ぬ。プロットを転換させるために死ぬ。話を展開させるために死ぬ。カタルシスを生むために死ぬ。それしか思いつかなかったから死ぬ。他にアイデアがなかったから死ぬ。というか、思いつきうる最高のアイデアとして、女が死ぬ。 p. 65

おもしろい短編集だった! 表題作である『女が死ぬ』や『男性ならではの感性』、『若い時代と悲しみ』が特に好きだった。のびのびと小説を書いていてすごかった。本作の一部の作品については、おもしろさがわからない社会になるといいとも思った。

3月5日。

ファットガールをめぐる13の物語

モナ・アワド『ファットガールをめぐる13の物語』書肆侃侃房

安っぽいしっくいの仕上げの天井のどこか上のほうにカメラが隠されていて、わたしたちの無意味な汗の粒を、何時間通っても消える気配のないまだらのぜい肉を、観客たちが大笑いしているんじゃないかって。 p. 252

おもしろい短編集だった②! 自身に対して抱くボディー・イメージを基盤とした、自分の身体、あるいは他人への身体への、鋭くて厳しいまなざしが入念に描かれていた。僕は僕の人生の中で、自分の身体についてあまり考えていない、というか、考えなくてもよい社会に置かれている(こっちの側面がでかそう)と感じた。あと、生活習慣とか実践が日本と全然違っているようで、新鮮だった。

3月9日。

「友だち」から自由になる

石田光規『「友だち」から自由になる』光文社

当然ながら、つきあう相手を選ぶ権利は、私のみならず周りの人ももっている。つまり、私たちは、つながりのなかに入るためには、周りの人から選んでもらわなければならないのだ。つながりに自動的に放り込まれない社会は、つながりを意識的に調達しなければ、つながりの輪からあぶれてしまう社会でもある。 p. 42

しかし、実際の調査結果はそのようにはなっていない。若者は、友人関係から撤退したいものの連絡はとっていたい、友だちと対立しないように自らの言説を調整するものの、それが嘘にはならないよう配慮したい、といったねじれた意識を抱いているのである。 p. 80

情報通信ツールは、人間関係が流動化し、おたがいが「友だち」であることを求められるなか、曖昧にされてきたつながりの中身を、非常にわかりやすい形で可視化させた。この機能は、私たちを情報通信ツールにますますしばりつけるはたらきをもつ。 p. 126

「『友だち』を意識しない」ことが、本書では提案されている。いまの社会において「友だち」や「友人」といったラベルは「よきもの」という強いコンセプトとして機能しているため、そこから距離を置くことで、よりリラックスした関係が築くことができるだろう、ということだ。なんならどんなひとでも「知り合い」と捉える方がいいともいう。まじか。友だちと思っている人に知り合いと思われていたらさびしいから、こちらはなるべく友だちと思っていたいという気持ちがある。

コロナ禍で参っていた(いまもそれなりに参っているものの)大学1年生、2年生のころは、「友だち」がいない・できないことにこれまでの人生で経験したことないほどの辛さや寂しさを抱えていて、当時読んでいたらよかったかも、と思ったけれど、より悪化していた可能性もありそう。いま、改めて読むことができて良かった。「友だち」というコンセプトに縛られすぎないようにするというアイデアを忘れないようにしたい。

人の意外な面や考え方を発見する機会って、案外目的から外れたところにこそあったりするんですよね。結果がある程度予測されている場所にしか行かなくなってしまうと、予測された結果しか得られなくなってしまう。

テレワークが続き、孤独感を覚えたら。今の時代に人間関係を深めるヒントを早大教授・石田光規に聞いた - りっすん by イーアイデム

そういえば、『りっすん』で公開されていた著者・石田光規へのインタビュー記事を読んで、本書を買っていたのだった。『「人それぞれ」がさみしい』と『友人の社会史』に続いて読んだ著作だと思う。

3月11日。

ヨソモノ紀行

神田匠『ヨソモノ紀行』

「チキンナンバンBIG」をテイクアウトして近くの公園で食べた。なんでこんなにおいしいのかよと言いたくなる。うまいな、うまい。やっぱり何回食べてもうまいものはうまい。おいしいものは食べて脳に刷り込まないと。できるだけ思い出せるように。 p. 58

2023年1月に開催された「文学フリマ京都7」で手に取った。奥付に、著者の 神田 id:jpmpmpw さんからいただいたサインがあってうれしい。

「異常においしいチキン南蛮弁当」をもとめて高知県を訪れた3泊4日が記録されている。滞在中に何度も「チキンナンバン」を食べている。とても楽しそうで、羨ましい。「チキンナンバン」を食べるとき、毎度興奮ぎみに盛り上がっている。おいしそう。おれもチキンナンバン食いて~!

3月11日。

ヨソモノ紀行 尾道

神田匠『ヨソモノ紀行』

もし私が尾道に来たとして、住んで馴染んで、街の人とも仲良くして、移住者と仲良くしてコミュニティを築いて居場所を守っていくということができるだろうか。 p. 45

『ヨソモノ紀行』と同日に買った作品。続編、というか、別シリーズ(?)といえそう。JR西日本の「サイコロきっぷ」で当たった尾道を2泊3日で訪れたことが記録されている。『ヨソモノ紀行』よりもやわらかめの書き味で、散漫な感じからとくにあてのない旅行っぽさが伝わってきていい。マークをつけない旅行をするのがたのしいから。

旅行先で、その地に住むことについて考えをめぐらすことがよくある。住んでみたいと思う。住まないと分からないことや経験できないことを知りたいと思う。わかる。

3月11日。

どこへ向かえば

乳化『どこへ向かえば』

散歩の日課は続いている。島では海に行けばいい、東京では飲み屋街に行けばよかった。ここではどこへ向かえばいいのだろう。 p. 51

乳化 id:chilhasegawa さんが、2022年11月の「文学フリマ東京35」で販売されたものを郵送してもらった。手紙つきでうれしい。

乳化さんのブログの魅力のひとつとして、浮かんだ言葉を根こそぎかっさらってゆくフリーライティング的な躍動感や、脳みそと直接つながっているかのようなみずみずしい言葉のならび、と考えてるんだけど、それが紙媒体になっている嬉しさがある。

本書では、著者にとってのふたつのターニングポイントにふれることができる。ひとつめは、「人生の見方」が楽観的(?)になったことで、ふたつめはそれをきっかけにした経験が、人格や性格に影響を及ぼしたこと。ただ漫然とターンしているわけではなくて、ターンしに行っている。まじでそういうことなんすね。そう読むと、タイトルの『どこへ向かえば』が、新たなターンを模索しているようにみえる。すでに先を見据えている。著者が著者自身に問うている言葉ではあるけれど、同時に読者各自へ投げかけられている。私(たち)もどこへ向かえばいいのかを考えていくべき。

3月12日。

スプートニクの恋人

村上春樹『スプートニクの恋人』講談社

「あなたと会わなくなってから、すごくよくわかったの。惑星が気をきかせてずらっと一列に並んでくれたみたいに明確にすらすらと理解できたの。わたしにはあなたが本当に必要なんだって。あなたはわたし自身であり、わたしはあなた自身なんだって。ねえ、わたしはどこかで——どこかわけのわからないところで——何かの喉を切ったんだと思う。包丁を研いで、石の心をもって、中国の門をつくるときのように、象徴的に。わたしの言うこと理解できてる?」 pp.316-317

帰省したタイミングで自室の本棚から引っ張り出してきて読んだ。おれの本棚には村上春樹の作品がある程度そろっている。高校生のとき、近所の本屋の古本コーナーで買い集めていた。

なんて調子のよい文章なんだ。数年ぶりに彼の作品を読んだら、その軽快さと話の内容が前より分かるようになっていた。以前は文章の調子だけを楽しんでいたところがある。いまもある程度はそうかも。

3月18日。

ストーナー

ジョン・ウィリアムズ『ストーナー』作品社

人生四十三年目にして、ウィリアム・ストーナーは、世の人がずっと若いときに学ぶことを学びつつあった。恋し初めた相手は恋し遂げた相手とは違う人間であること。そして、恋は終着点ではなく、ひとりの人間が別の人間を知ろうとするその道筋であることを。pp. 228-229

思えば、人生の一瞬一瞬すべてにそれを行使し、そう意識しないときにこそ最大限に行使してきたのかもしれない。それは精神的な情熱でも肉体的な情熱でもなく、両方を包括する力なのだ。この力こそが愛の本質、まさに愛の真髄だ。女性に、詩に、それはただこう告げる。見よ、わたしは生きている! p. 295

先日会った友だちが「全員に少しずつ恋をしている」と言っていた。すごく良いコンセプトだと思って、そのことがどういうことかについて考えていたときに、『ストーナー』で恋について「ひとりの人間が別の人間を知ろうとするその道筋である」と語られているテキストを見つけて、腹に落ちつつある。

この小説は、インターネットで知り合った最も古い友人のひとりである id:matteroyo に紹介されて(ツイートしているのを見て)、高校3年生のときに読んだ作品だ。あれから3年が経ったいま再度読んでみると、その間に経験したいくつかのことのおかげで、描かれていることがより鮮明に受け取ることができた。彼が残している感想エントリー もとても印象に残っている。

いま、このタイミングで、読むことができてよかった。ひたむきに学業に励むストーナーの態度や、キャサリン・ドリスコルとの不倫を描く第12章に、特に引き込まれた。

3月22日。

編集の提案

津野海太郎『編集の提案』黒鳥社

成功した雑誌の編集者たちは、いったいなにが成功したのか。おそらく彼らは、観客である読者たちの眼のまえで、われわれはあなたたちよりもはるかに充実した生活をいとなんでいるのだという集団の演技を、あざやかに、真にせまってやってのけたことによって成功したのである。 p. 57

たしかアルバイト先の同僚に誘われて行った「左京ワンダーランド」という催しに出店していた恵文社で買ったもの。たぶんそう。「下鴨納涼古本まつり」じゃなかった気がする。

「雑誌はつくるほうがいい」で、まぼろしをつくりだすのが「雑誌の演技」だと語られていておもしろかった。演技抜きで楽しみたいという気持ちもある。

3月29日。

暇と退屈の倫理学

國分功一郎『暇と退屈の倫理学』新潮社

現在のポスト・フォーディズム的生産体制の根幹にあるのは、消費スタイルの問題である。絶えざるモデルチェンジを行わねば消費者は買わず、生産者も生き残れない、そのような生産体制がいま決死の努力で維持されている。 p. 160

なかでもボードリヤールが注目するのは労働である。現在では労働までもが消費の対象になっている。どういうことかと言うと、労働はいまや、忙しさという価値を消費する行為になっているというのだ。「一日に十五時間も働くことが自分の義務だと考えている社長や重役たちのわざとらしい「忙しさ」がいい例である」。 p. 177

だから余暇はもはや活動が停止する時間ではない。それは非生産的活動を消費する時間である。余暇はいまや「俺は好きなことをしているんだぞ」と全力で周囲にアピールしなければならない時間である。逆説的だが、何ををしなければならないのが余暇という時間なのだ。 p. 178

消費者は自分で自分たちを追い詰めるサイクルを必死で回し続けている。人間が誰かに蝕まれるのではなく、人間が自分で自分を蝕むのが消費社会における疎外であるのだ。 p. 191

友人と催した読書会の課題書2冊目。記録を見返すと、2022年1月に読んでいたみたいだった。結構最近のこと!

第4章・暇と退屈の疎外論でタイラー・ダーデンを「消費社会の落とし子」、つまり消費社会に促され、その論理に従ってそれを拒否することで確立するキャラクターと捉えているのがおもしろかった。彼は決して消費社会の外側にいるわけではないし、破壊のみしている。なるほど。

まだ読書会で読み切れていなくて、3分の1くらいを読み残している。個人ではすでにすべて目を通したけれど、「読んだぞ!」という気にならなかったので、ここに記すのが憚られたが、読書会で読んだことを記録しておきたかったので書いた。ふたりでやいやい言いながら読み進めるという体験をこれまでしたことがなくて、かなり楽しかったんだと思う。これを達成するには、いくつかの条件(関心の方向が似ていること、読みに違いがあること、スケジュールが合うこと、など)を満たさなければならない。誘ってくれた友だちに、ありがとう! と伝えたい。ありがとう! 残りも読みきりたいですね。

3月30日。


過去の読んだ本の記録
boldmove.hatenablog.com

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