20260213

飲み会の予定かがあったので午後からオフィスに出社した。同じプロジェクトの人はみんな在宅勤務なので会社に行っても話せる人がいないので悲しい。話せるというか挨拶できる人。俺の人との関わりたさって配属どうこうで解決するようなものじゃなくて職種や業種に問題がある。ぱちぱちキーボードを叩いて退勤。

新宿三丁目駅の居酒屋で会社の同期と落ち合って 3 人で近況報告をする。新宿でいちばんよい居酒屋。彼らとは「なかよし日報クラブ」という Teamas グループチャットを結成しており、日々の業務内容を公開しあっている。ひとりは新人研修で仲良くなった東京出身の男で、もうひとりはその男と同じ大学出身の滋賀出身の男。数ヶ月おきに飲み会を開いて、Teams で話しにくいことを話している。投票行動の話とか。

ひとりは個人主義者で日本共産党を支持しており、もうひとりは象徴天皇制の維持のために日本保守党を支持している。俺はひとりめと同じ共産党支持者だが左翼的な思想に関心があり、ひとりめの彼とは少し関心が異なる。この飲み会で彼らと政治をめぐる会話をするのが楽しい。俺たちは現状の政治体制に不満があるという点では意見を一致しているという見方もある。もしこれがみんな同じ政党を支持していたら楽しくないと思う。なんなら自由民主党の支持者がいればもっと会話が弾むのだろうとすら思う。東浩紀の例の動画を想起する。ソーシャルメディア上でこうした会話を実現するのは難しいと思う。

福尾匠は『置き配的』のなかで次のように書いており、それを思い出した。

「主義」あるいは「イデオロギー」としての大きな物語が消失したというのが、ポストモダンの到来とともに言われたことだったが、理論の退潮においてあらわれているのは、それとは異なる事態だろう。

いつかの回でも書いたことだが、むしろいまは主義やイデオロギーであふれかえっている、というより、それらを他者に投影し相手を陰謀論者と見なすことによってしか、それらの外に出られなくなっている。つまり、イデオロギーや主義は掲げるものではなく誰かに貼り付けるものであり、そうすることで誰もがおのれの中立性を保っているのだ。

そしてそうした投影は、具体的には誰かの言うことをたんなる「パフォーマンス」だと、その内実を骨抜きにする身振りとともになされる。つまりアテンション稼ぎ、ポジショントークにすぎないという揶揄が行き交うこと自体が、アテンション・エコノミーを支えている。(p. 165–166)