順当な学生は映画を観ない

ブログで知り合った友だちが深い赤色をしたスバルのSUV*1に乗ってどしゃ降りの京都にやってきた。西にいくつか用事があり、そのついでに遊びに来てくれた。デカくて赤い車にシュッとした彼が乗るのは画になっていてかっこよかったので、いずれは僕もデカくて赤い車に乗って木曽川の堤防沿いを安全な速度で駆け抜けたい。もちろん空の写真とかも撮ります。

辞めたサークルの先輩から教えてもらったカレー屋さんでカレーをご馳走してもらったり、アーケード商店街で風雨を避けつつ喫茶店でコーヒーとケーキをご馳走してもらったりした。一昨年の秋に初めてお会いしたときもコーヒーをご馳走してもらったので、私はかなりご馳走してもらっていることになります。そういえば先日アルバイト先の上司にも点心をご馳走してもらっていた。このご馳走の”パス”(あるいは”バトン”とかでもいいです)をスマートにこなしていきたいが、僕はボール捌きが不得手でチームメイトに残念な思いをさせていた記憶がある。

アーケードをぶらぶらしているとき、彼は『ドライブ・マイ・カー』がつまらなかったと言っていた。カーチェイスの描写がなかったかららしい。確かに『ドライブ・マイ・カー』では手に汗握るカーチェイスを観ることができない。同時に、映画を観る前にタイトル以外の情報をほとんど入れたくない(スチールの雰囲気で意思決定をする)とも言っていた。だからつまらない(not for me)の映画にあたることが多いとのこと。わかる。彼ほどストイックではないけれど最近僕も映画のタイトルとスチールの雰囲気で映画を観ることが増えた。映画館で映画を観るということはつまり2時間程度の尺のコンテンツと向き合い続ける、つまり長い間拘束を強いられることを意味していて、だからこそ映画には相応の期待をしてしまうし、失敗したくないと思う。映画を観る前にそれについての情報を得れば得るほど失敗の起こりにくさが大きくなるが、その分ハプニング的映画体験を損なってしまう。僕は偶発的な映画との出会いを求めていて、それを実践した結果『春原さんのうた』は結構成功だったし、『愛なのに』は大失敗だった。友だちは『ドライブ・マイ・カー』で失敗をして『花束みたいな恋をした』で成功を収めたらしい。

最寄りのコンビニまで送迎をしてもらっているとき、彼は大学生は映画を観ない(これは要約しすぎかも)と言っていた。確かに順当にプロセスを経た大学生には映画を観ることよりも重要なことがかなりたくさんある(そしてそれらはすべて現実に直面している)と思う。このあいだゼミでグループワークをしていたときも、動画配信サービスの話になったとき、ある女の子は映画は長くて観ないと言っていた*2。たしかに映画は長い。長ければ長いほどそれは苦痛だと思う。なぜならスマホの通知が気になってしまうので。

*1:正確にはクロスオーバーSUVという車種に該当するらしい

*2:直接は関係ないけれどさっきkindleで稲田豊史『映画を早送りで観る人たち』を買いました。