ぺろりと平らげる美学

俺には味がわからない。恋人は食事をしているときに「この料理には青じそが含まれている」だとか「さっき食べたカレーにはチョコレートか何かが入っていた」だとか、積極的に味について言及することが多い。言われてみてああたしかにそうだと納得することはあっても、僕が自発的に味について口にすることはほとんどないと思う。あまいねとかしょっぱいねとかからいねとかかたいねとかそのくらい。このあいだの旅行でも味を言葉にする彼女を目前にして、もしかすると自分が料理の味に無頓着すぎるのではないかと思い始めてきた。俺には味というものがさっぱりわかりません。

ではなぜ、味についてよくわかっていないのにもかからわず、毎日三食にこにこ笑顔でむしゃむしゃ残さず食べる奇妙なことをしているのかと考えたときに、もしかすると食事においてその「残さず食べる」の部分に力点を置いているのではないかといった声が僕から寄せられた。つまり目の前の食べ物を一掃することに食事の楽しさを見出しているということ。

おそらくそれは「残さず食べてえらい」と言われて育てられた家庭環境に起因していて、味への理解よりも、提供された食事をきれいさっぱり胃袋へ放り込むこと目指す食生活を送っていたから。そういえば小中学校の給食もそういった価値観でしたね。料理を作ってくれた方には、味について言及するのではなく、残さず食べることで感謝を伝えるみたいな言説がはびこっていた。学校での食育にそれなりのインパクトがあるのだとすれば、一定数残さず食べることに食事の楽しみを見出している人がいるのかもしれない。

となると、僕がほとんど毎日自炊を続けられているのは、自作のおいしい料理食べるのが楽しいのではなくて、作った食事を一掃することに喜びを見出しているからだし(晩ごはんに数杯分のみそ汁を作って、毎晩鍋を空っぽにしている)、プロの作った料理を積極的に食べに行かないのも、残さず食べることに味が関係ないから。ここまで極端でなくても、食事の目的の大部分が「ぺろりと平らげる」ことにあるのは間違いないような気がしてきた。食器が空っぽになると達成感がある。たとえばラーメンのスープは飲み干すし、コップの中の氷は全部食う。俺の食事は味覚に依存していない。全然関係ないけど、小学生の頃道端で拾った木の枝をかじって、「チロルチョコのわらび餅味がする!」と喜んでいた過去がある。

とはいえ、料理の味を楽しむことから目を背けるのはもったいないし、まだ21歳だから堂々と「ぺろりと平らげちゃう」とかなんとか言っていられるが、いずれぺろりと平らげるのが難しい年齢になったときに食事の楽しみを失うのは恐ろしいので、これからは味に軸足を置きながら食事をしていきたい。これからは味の時代。食事では、あなたの味覚が主導権を握っている。