パイを落として、筑前煮を炊く

パイを落とす

箱から取り出す前の坂田焼菓子店のメープルカスタードパイ

まっしろなクリームに覆われたメープルカスタードパイをひと切れ買って坂田焼菓子店を後にした。家に着いたらコーヒーを淹れて昼食の代わりにしようと胸を膨らませていたら、パイの入った小箱がするりと手から滑り落ちた。パイが落ちた。

小袋成彬の「GOODBOY」ってなんかあれだけ声違いませんか? おんなじか。パイを落とす前は小袋成彬の『分離派の夏』を聴いていて、パイを落とした後はTENDREの新しい作品を聴いていました。男の歌声を聴いている。

食べる直前の坂田焼菓子店のメープルカスタードパイ

ある人によるアウトプットが、その生産者・創造者とどのくらい距離があるのかと考えている。そんなことケース・バイ・ケースなんだろうけれど、たとえば手掛けた人の意志・思想や生産・創造されるまでの工数・過程、受け手の捉え方・価値観などで、アウトプットとつくった人との距離がある程度柔軟に変化しそう。昼過ぎにパイを落としたとき、僕はパイに対して申し訳ないと感じていた。

マクドナルドから期間限定で販売される月見バーガーが秋の風物詩のような立ち位置にあるのってすごい。企業によるいちプロダクトが季節を感じさせる品物になっている。

筑前煮を炊く

炊かれている筑前

ごろごろした根菜を包丁でざくざく切ること。一口大になった食材を鍋に入れてことこと煮ること。だんだん台所にしょうゆや料理酒、みりんを煮たときの匂いが広がってゆくこと。筑前煮を炊くことで獲得できる様々な体験があります。こうして自分をケアしているという見方もできる。調理にはセラピー的な側面がある。

black midi「Welcome To Hell」のライブ映像を観た。彼らの生演奏を聴いたらとても気持ちいと思う。興奮して脚から崩れ落ちそうな気がする。言い過ぎました。

好きなブログを書く人が毎日エントリを投稿しているのが嬉しくて、自分も日記を書きたい気分になっている。同じことを何度も何度も言い続けていきたい。

盛られた筑前

千野帽子『人はなぜ物語を求めるのか』で、できごとの前後関係を因果関係と認知・解釈してしまうことを「前後即因果の誤謬」というのだと示されていた。「わかった!」という体験は理性によるものというよりも感情の問題によるものという。ジョセフ・ヒース『啓蒙思想2.0』でも語られていたような人間の認知って頼りないっスよねと主張する本を最近よく手に取っている。

パイを買う前に筑前煮の材料を買っていたせいで、片腕がふさがっていたから、買ったばかりのメープルカスタードパイを落としてしまったのかもしれない。