荒川洋治『日記をつける』

荒川洋治『日記をつける』岩波書店

このブログに日記をつけるようになったのは、今年の春から。ブログを立ち上げた当初は、生活の様子を記述することを避けていて、あるひとつのトピックについて語る記事を投稿するようにしていた。企画記事めいたものをまとめたブログにしたかったのだと思う。4月頃からなんとなく気が変わって、生活に着眼してこそブログなのだと、気が向いた日に日記をつけるようになった。

Twitterスペースで日記にタイトルをつけることについて喋っていたら、聞いてくれていた方がスピーカーとして参加してくださって、この本をを紹介してくれた。これはおもしろそうだと即メルカリで買った。ここのところメルカリで書籍を買いすぎている。岩波アクティブ新書はミズノみたいな表紙をしていてスポーティーでかっこいいです。

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筆者は、「2 日記はつけるもの」の「『書く』と『つける』」で、自分以外の者に公開されるものは、日記ではないと断言する。

カレンダーに予定を書き込む人もいる。水曜「生ゴミ」土曜「町内会」などと。生活のメモだが、そのままでは日記になりにくい。他人もみてしまうからだ。たとえ家族であっても公開されるものは日記とはいえない。カレンダーを隠す人はあまりいない。(p.37)


その一方で、「3 日記のことば」の「一日の長さ」では、つけている日記がある程度の長さになると、「あるまとまりをつけようとする意識が働」き、「それを読めば誰でも了解できるような内容をも」つ、「作品」になると語っている。長さによって日記は作品へ転換するという。

ある長さのなかに入っていくと、他人の視線が浮かんでくる。「読者」の顔がちらつくのである。「社会的」なものになるのである。誰もそこにはいないのに、読まれてもいいものにしようという気持ちになる。日記の文章は人にもよるが、おそらく三〇〇字あたりを過ぎたところから、文章を書くことになる。作品を書くことになるのだ。(p.87)

同章の「ひとりの『宝』」でも、以下のように述べられている。

自分だけがわかることばというものは、あまり意味がないもの、はかないものなのかもしれないと思う。日記は、どんなにことばが少なくても、それを見た人が、何かをいっしょに感じあえるようなところをもつべきなのかもしれない。(p.95)

日記をつけることはあくまで個人的なものであり、他人に読まれるものではないという前提は、普段から日記をブログで公開している者からすると新鮮な主張に感じられる。筆者の面白いところは、そんなプライベートな作業でも、あるとき「読者」のまなざしを意識してしまうのだというところにある。読むのは自分だけなのに「読まれてもいいものにしよう」と考えてしまう、こころの機微を捉えている。

ブログで日記をつけることは、不特定多数の人びとに読まれることを念頭に置いた作業だ。この本は2002年に出版されているのでブログサービスについて触れられてはいないが、もし筆者がブログで日記を公開することを知っていたら、無粋ですね、と切っていたことでしょう。


「5 あなたが残る日記」の「記録と記憶」では、やわらかい語り口で、鋭利な主張が展開されている。好きな人、大切な人をもったとき、記憶は懸命になり、記録に替えたいという気持ちが働くのだという。

記憶のとぼしい人は、おそらく人をほんとうに愛したことがない、あるいはほんとうには好きな人がいなかったのかもしれない。好きな人ができると、どんなにあやふやだった人でも、脳が活性化し、記憶の力も育っていく。(p.149)

筆者は、日記をつける人は「人をたいせつにしたいと願う人なのかもしれない」と分析する。言い過ぎな気もするが、これも、閉じられた自分だけの日記であることが前提にある。誰にも読まれない記録だからこそ、その日記に込められる力(ラブ・パワーといってもいいでしょう)はデカくなるということ。


同章の「ひととき」で、とても良いことが書かれている。これは先に触れたTwitterスペースでも言及があった。これは引用したくなる名文。

ひとつの気持ちを文字にするときには、人は自分を別の場所に移しているものだ。そして、自分をよく見せたりする。ほんとうは、こんなことではなく、別のことでつらかったのに、その別のことをつける勇気はない。義務もない。日記は自分のものだから。だから感情面の出来事についてはいつもほんのちょっとだけ、事実と、ずれたものになっている。だから、ほんとうのことは日記のなかではなく、そこからちょっとだけ離れたところにあるのだ。(p.163)

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本書は2000年代初頭に書かれたものだが、ちょうどそのころ、このはてなブログの前身のサービスである「はてなダイアリー」がリリースされていた。2005年に公開された、創業者・近藤淳也さんへのインタビュー記事には、日記を通じたコミュニケーションについて書かれている。

アメリカのブログサービスはあくまで、「ジャーナリストなどが情報の1次ソースを提供してメディアの役割を果たしてい」るものだとして、以下のように続く。

 ただ、はてなダイアリーが求めているところとは違うと思っています。メディア的なサービスよりも、もっと身近な関係を豊かにするサービスを実現したい。「人は一人では生きられない」と思うので、その大きな命題を解決するほうが現実的だと思っています。

 例えばはてなダイアリーでは、横浜と大阪で離れて暮らしている親子が、お互いの生活の日記を書いてコミュニケーションしているケースがあります。こういう日記はその人たちにとって、どんなメディアよりも価値のある情報を提供していると思います。その人にとって価値のある情報を1 to 1でマッチングすることで、今まであまり価値のある情報とはみなされていなかったものが、大きな価値を持つようになる。そうすることで、世の中全体の価値の総体が大きくなると考えています。

「日本人にはBlogより日記」、はてなの人気に迫る - CNET Japan

僕もインターネット上に自分の生活の日記を書くことを通して、コミュニケーションを楽しんでいる当事者です。日記をつけることは、個人的な閉じられたものではなく、社会的に開かれたものという認識がある。楽しいからヨシ、という感じだけれど、筆者の捉えた日記のニュアンスは薄れていっているのかもしれません。手書きではなくなったことも、ニュアンスの変化は大きそう。脱線しました。

さいごにナイスなフレーズを引用して終わります。

ことばが回りはじめると、日記は動く。(p.132)