走らせる

風呂上がりに6分間のストレッチをしている。前屈をすることで、自分の身体がどのくらい柔軟かを知ることができる。これってメディア。僕は自分の柔軟性にあまり関心はなくて、どちらかといえば、現在の自分がどのくらい走れるのかとかどのくらい泳げるのか知っておきたいんだけど、京都は泳いだり走ったりするために整えられた街ではない。

学部の講義と大学院の講義をおなじ学期に履修していて、てんてこまいになるかと思っていたけど、案外生活のほうも走らせ続けられている。なんでかなと思ったけれど、ブログを読む時間を失ったからだ。まだオリエンテーションを済ませたばかりだからってのもある。プロジェクトを進行させるとかの意味合いで使われる、走らせる、って言葉がけっこう好きで思い出したときに使ってる。プロジェクトをひとつの人格と捉えて、わたしがそれと並走するイメージが浮かんでくる。

学部のゼミの人たちとかんたんな雑談をして楽しかった。人と話しているときに楽ししくなりすぎて変な動きをしてしまうことがある。自発的な踊りというものがある。ある構造下というか、コードに従うかたちで踊らされることもあって、BC, NRの演奏を聴きながら身体を動かしていたときはそちらに該当した。外部からの刺激に対する反応という点ではどちらも同じなんだろうけど、ライブを聴いて踊らされたり、お笑い芸人のネタを見て笑わされたり、議論の場で意見を言わせられたり、そういうのってその環境のコードに従って物事を取り組んでいるから、受動的な行為のように感じる。自発性をどうやってわたしのものとして捉えるかが、ハンドルを握るためのポイントになってきそう。

なんかもうBC, NRのライブアルバムずっと聴いてる。マーケティング論の講義が終わってから先生にカレーとナンをごちそうしてもらった。交友関係の狭さがいまのてんてこまいな学生生活を成立させているなと思ったけれど、因果関係が逆な気がしてきた。乾杯ってオンラインでしかしたことないね。村上春樹『壁街』は寝る前にひとつのセクションずつ読み進めている。電話で恋人の元気そうな声を聴けただけでとてもとてもOK。