話さないと元気出ない

近所のうどん屋へ行こうと昼すぎに外に出たら、思っていたよりも暖かくなっていて肌が気持ちわるかった。気持ちわるくなった少し後に、デートしたくなる陽気だとも感じた。いずれにせよ早く暖かくなってほしい。うどん屋は閉まっていて、その代わりにカレー屋へ行った。ご飯がべたべたしていておいしくなかった。店構えがやる気のない微妙な感じだったので、もっと早くに気づくことができたと思う。つまらない映画も上映開始してすぐつまらない映画だなって分かる。つまらない映画はそのつまらなさを楽しむことができるが、おいしくない料理はそのおいしさを楽しむことが困難である。完食するまでつきまとってくる。

今日はなんだか元気の出ない日でグッタリしていた。昨日から就活を始めた。午前中は自己 PR の文章を書いていた。どんな会社でどんな仕事をしてどんな感じになっていきたいのかを考えていないのにガクチカを書こうとするのは無謀だと思う。昨年の今ごろこれをゼミの同期や高校の同級生たちはやっていたのかと思うと頭が下がる。ここで俺には向いていないみたいなノリになっていくのではなく、とりあえず取り組んでみるみたいな方向へ持っていきたい。明日もちゃんとやる。

元気の出ないときに元気を出す方法として、たとえば、温かいものを食べることやゆっくりと湯船に浸かること、ぐっすり寝ること、少しでも運動することなどが有効であるとされる。いわゆるセルフケアの文脈とかで取り上げられますよね。たしかにその通りなのかもしれないが、結局のところ人と話さないと元気って出ないと実感している。人と話すこと。それ以外元気を出す方法ってない。実際、19 歳から 20 歳にかけて僕が常にグッタリしていたのってパンデミックで誰とも話せていなかったからだと思うし。食事も風呂も睡眠も運動も一切怠っていなかったが、ずっと部屋に閉じこもって誰にも会っていなかった。それが当時抱えていた問題の原因だったと思う。後悔しても仕方がないが、あの年齢のときに手に入れられたはずのことって今の自分が想像できる範囲を超えてあった気がする。人と会って話せばよかった。

人と話すことって自分以外の他者に依存しているから、少なくともセルフケアの文脈では取り扱われてきていないのかも。どうなんですかね。てかそもそも自分って自分以外の他者に依存してこそ成立しているというか、他者との関係性でしか自分って立ち現れなくないですか。自分で何とかする・セルフケアに邁進する・自分の機嫌は自分でとるといったアイデアってなんか賛同できなくて、何がしたいのって思う。言い訳しているみたいに聞こえる。ただ一方で、シスヘテロ男性としてはその自身のケアの役割を女性に求めがちという話もある気がして、それでいうとまずはてめえで何とかしろよという気持ちにもなってくるかも。少なくとも ChatGPT に壁打ちしてなんとかできるほどおれはおれのことを騙すことができない。人と会って話すことおかけがえのなさってある。そういえば指導教員は就活はかならず数人で取り組めって言っていて、ようやくそれを実感として掴みつつある。どんな状況であれ何とかするしかない! お互いがんばっていこう!