そこそこ愚かでそこそこ美しい

中学生のとき一緒にバスケットボールをしていた先輩がInstagramで結婚したことを報告していた。1年と半年間、先輩と同じコートに立ってプレイをしていた。先輩は中学の練習に飽き足らず、毎晩さまざまなコートで練習に参加していて、月曜日の強豪校の夜練や火曜日のサークルの練習、週末のクラブチームの練習に僕を誘って連れ出してくれた。先輩は優秀なシューティング・ガードで、僕はそんな先輩とバスケットできることが誇らしかった。同級生に柔らかい態度をとる温和な性格とは裏腹に、先輩はとびきりセルフィッシュなプレイヤーで、それは自身の技術を信頼しているからこそ生まれるものだった。僕がこれまで出会った中で最もバスケットボールにとても誠実にあり続けようとしたプレイヤーだったと思う。過剰に誠実で、かっこよかった。

9時から19時まで大学の教室に閉じこもってグループワークを進めていた。いつか忘れたけれど、グループのみんなで写真を撮ろうと提案していて、それがようやく叶ってよかった。特に何もないような日にとりあえず集合写真を撮っておくという試みは、時間が経つにつれればつれるほど素晴らしいものになる。これは予想です。写真を撮るときの恥ずかしさの飛距離と、撮った写真が残る嬉しさの持続性について。スマートフォンのインカメラを用いて自撮りすることを徹底的にかっこ悪いものとしてパッケージングしてしまった問題が浮かび上がりつつある。自撮り棒とか。そこそこ愚かでそこそこ美しい。

インターネットとの関わり方について、これまで真剣に考えるようなふりをしつつ適当にあしらっていたが、そろそろ(とてもとても)かなり真剣に考えていくべきだと感じている。どうすれば真剣に考えていることになるか。まずはそこから。たとえば私の想定しているインターネットを「インターネット」と呼ぶのを改めて、たとえばソーシャルメディアと呼んでみるなどの試みとかから。インターネット呼び仕草とかも誰か(本当に誰が言っていたかなんて覚えていない)の用法の流用でしかなくて、そうしたところから綻びなどが生まれるのではないでしょうか。適宜修繕しましょう。

先輩のご両親の送迎で夜練に参加していた。体育館を訪れるまでの道のりで、先輩は好んで宇多田ヒカルのアルバムを聴いていた。時おり鼻歌も聴こえてきた。