まぼろしじゃないものは?

着席して講義が始まるまでホンホンと待っていると、TwitterのDMに嬉しい一報が入っており、明日午前中の予定が確定した。好きな人の直接的・間接的な働きかけによって、これからの予定が定められる体験を何度もしている。喜ばしいことだ。その一方で、自分からなにか他者の生活へ関与したことはあまりない。実際には関与しているが実感が湧かないケースとそもそも関与していないケースのふたつが考えられる。実感を得られるような姿勢をとるべきだし、他者に働きかける素振りをみせるべきでもある。講義が終わってから、豚バラ、鶏もも、ブリ、タラとその他野菜を買って帰った。

Twitterの機能を代替するサービスへ移行する(準備をする)試みをちらほら確認している。TwitterではないものにTwitterの機能を求めるのはかなり困難なような気がしていて、僕は他のどのサービスもろくに利用したことがないのだけれど、なかなかうまくいかないだろうし、いい感じにゆっくりとソーシャルメディアのひとつから離れていけたらよいのでは、みたいな立場を(今のところ)とっている。空間を圧縮して、まるでその場にいるかのような同期性をつくりだすのは、Twitterというサービスならではだし、そこから受けた恩恵も大いにあるのだけれど、そもそもこのあまりにも速すぎるコミュニケーションは、一時的な文化でしかないのかもしれないですね、という感じもある。既につながりが生まれてしまっているので、はなればなれにならないように、みんなが複数のソーシャルメディアのアカウントを同時並行で運用する形をとるか、気が向いたときにブログへ訪問する形をとるか、電話番号とメールアドレスを交換する形をとるか、たまに顔をあわせて挨拶をする感じになるかみたいなことになってる。ここのところは、電話番号を交換するのが最もかっこいいですよね、という気持ちが高まってきているのだけれど、なかなかハードルが高いので、メールアドレスを交換するのも手だと思う。私のメールアドレスはaboutページにあります。ただ、ソーシャルメディアのよわくてながいつながりに慣れてしまっているなかで、メールによる強め・重めのコミュニケーションに耐えきれるかどうかわからないやってみないとわからない。

これまで惰性で観ていた『silent』だったが、第6話「音のない世界は悲しい世界じゃない。」で、かなり引き込まれた。絶対に理解できないけれど理解したいという姿勢や、決して叶わないものに対する憧れが駆動させる物語が好きなんだと思う。最近観てボロボロ泣いた、映画『彼女が好きなものは』もそれに近いところがあった。昼食を済ませた。ちらし寿司。

昼過ぎから晩にかけてアルバイトをした。これまで60分かかった作業が45分で終わるようになっている。30分考えないとできなかったことが15分で片付くようになっている。良くも悪くも手際が良くなっていて、ここからさらに生産性をあげるためにはいったん手際を悪くする必要があるのではないかと考えている。ここでは生産性をあげるべきかという問題については考えていません。

始業前に作っておいたシチュー(気分によってストゥと呼んでいます)を夜に食べた。セブンイレブンで一緒に食べるためのパンと一緒に、不覚にもPOPEYE 12月号「お久しぶりです、京都」を手に取ってしまった。毎年恒例の東京特集を見かけるたびに、はいはい東京分かりましたいいですねいろいろあって私にとっては東京も地方ですけどね、みたいな意味の分からないケチのつけかたをしていたのに、身近な街の特集となるとこのありさまである。どうせまともに読まないのに! 掲載されているいくつかのお店を尋ねようと思います。今読んでいる『編集の提案』という本で、雑誌の成功した理由について「観客である読者の眼の前で、われわれはあなたたちよりもはるかに充実した生活をいとなんでいるのだという集団の演技を、あざやかに、真にせまってやってのけたこと」と語っていて、興味深かった。すべてはまぼろし。じゃあ、まぼろしじゃないものは?

安さをウリにしている商品を手放しに喜べないなと考えていたら、彼女からメルカリにまつわる連絡があって、メルカリとかまさにそうだなーと思った。これは少し話がズレるけれど、ユーザー同士で効率的に取引をするための場なのに、値段交渉とか明らかに意味のないことをするひとがいるせいで、より一層しょうもなくなっている。消費者同士で足の引っ張り合いすんなよみたいな気持ちになる。浴槽の中で『ゆるキャン△』シーズン2を観終わった。あとは映画しかないんですか。まじかよ。

朝の講義が終わってから、好きな先生に昨日のブログで書いたことについて話したら、「インスタきもちわりー」ってけたけた笑ってくれて嬉しかった。先生はいつも別れのあいさつに「じゃあ、頑張って」と言う。頑張ろうと思う。

一瞥でコミュニケーションの可能性を拡げるInstagramのプロフィールページについて

私的なコミュニケーションの場が「LINE」から「Instagram」へ移り変わっている感覚がある。

特にプライベートにおいて、Instagramは強力なコミュニケーション・ツールとして機能するように思える。その起点となるのが、ユーザーの投稿を一望できる「プロフィールページ」だ。まさしく「プロフィール」を知ることができる。

Instagramのプロフィールページから分かる情報と、それが次のコミュニケーションのための豊富な材料になっていることについて記述していきたい。

「プロフィールページ」に詰め込まれている情報

初対面の人と連絡先を交換することになったときには、とりあえずInstagramのアカウントを教え合う。電話番号とかメールアドレス、LINEのアカウントなどは「交換する」ものだが、Instagramのアカウントは「教え合う」感覚が近い。

手始めに相手のプロフィール欄をのぞいてみると、以下のような情報が飛び込んでくる。

  • 名前やユーザーネーム
  • プロフィール写真(アイコン)
  • 自己紹介文やリンク
  • ストーリーズ
  • 投稿数
  • フォロワー・フォロイーの数
  • 知り合いのフォロワー
  • ストーリーズハイライト
  • 投稿している画像や動画
  • タグ付けされた画像や動画

ストーリーズやストーリーズハイライト、タグ付けされた投稿については、タップやスワイプの動作が必要であるが、その他の情報はすべてプロフィールページのトップに集約されている。投稿された画像についても、デバイスに依存するものの、少なくとも6つの画像が目に入るはずだ。

「プロフィールページ」から何が分かるのか

最速で目に入るのは、プロフィール写真や投稿された画像だと思う。テキストよりも刺激的だから。何を投稿しているか見るだけで、なんとなくその人の趣味・興味・嗜好がなんとなく伝わってくる。そこから知れるのは、その人の人となりではなく、どうInstagramを利用しているかに過ぎないのだけれど、Instagramの利用にはある程度人物像が反映されている。また、全く投稿していない(あるいはアーカイブしている)のもまさにInstagramの利用だし、意外とそういう人がストーリーズの更新が活発だったりしたりしますね。

名前やユーザーネームからは、もちろんユーザーの名前が分かるが、それ以外にその読み方や誕生日を知れることが多い(ユーザーネームに名前のローマ字読みや生年月日が用いられる傾向にあるため)。たまにめちゃおしゃれなユーザーネームの人がいて、そういう人は投稿もクールだったりする。

フォロワー・フォロイーの数から分かるのは、友人の多さというよりも、Instagramの使い方で、多ければ多いほど活発に使っていることを予想できるし、少なければ気の知れた友人知人としか交換しないのだろう(こういうタイプの人と交換すると嬉しくなる)。フォロワーよりもフォロイーのほうが多ければ、著名人やインフルエンサー、公式アカウントをフォローしていることが期待できる(興味のあることを知れる)し、同程度であれば連絡先として交換するためのアカウントなのだろうと考えられる。

自分がフォローしているアカウントも表示されるので、近いコミュニティであれば、誰と面識があるのか知る手掛かりにもなる。先日他大学の方とInstagramのアカウントを交換したところ、彼のフォロワーに僕の高校の同級生がいた。それが瞬時に分かる。

「プロフィールページ」の何がすごいのか

これまで述べたことはかなりどうでもよくて、プロフィールページを一瞥するだけで、上記のことを考えることができるということがすごい。ただInstagramのアカウントを交換しただけなのに、一瞥するだけで大量の材料が与えられるということ。LINEであればここまで考えられない。

スマートフォンの画面に情報が集約していること。アカウントを交換すれば、容易にアクセスできること。Instagramの利用から、その人の人物像が(なんとなく)(無理やりにでも)つくりだせること。これらは、この次のやりとりに大きな影響を与えうる。たとえ初対面であっても、ストーリーズや投稿を切り口に会話を始めることができる。LINEのトプ画とホーム画、あと設定されたLINE MUSICから無理やり切り出す必要がない。プロフィールページには、将来のコミュニケーションを拡げる可能性があまりにも多く潜んでいる。

「プロフィールページ」から何が分からないのか

その人のほとんどすべて。食事に誘うなどして、ともに時間を過ごし、話すことで、より多くのことを知ることができるでしょう。

(おろらく)誰かがそこに置いた

もう誰もいない場所から、誰かがいた痕跡を見つけると嬉しくなる。

公園を訪れたときにドッヂボールのコートの線が残っていたり、アスファルトにチョークで記号やイラストが描かれていたり、オフィスチェアが自分の体格に合っていない高さに調節されていたり、あるいは教室に設置された机の隅にに消しゴムのカスが寄せられていたり。それらは、その場で他者が快適になろうとしていた跡である。誰かが世界に関与しようとした意思を確認することができる。僕ももっと世界に関与していくぜイケイケドンドンなバイブスになってくる。

ゼミの活動の一環として目を通した論文のいくつかで、制度下に置かれた行為主体による意志のある行動を記述しようとしていたものがあった。そうした、ある環境とそこに置かれたアクターという枠組みで目に見えたものを認識しがちになっているというのもあるかもしれない。

近所をぶらぶら歩いていると、しばしば誰かの関与を見つける。ここでは、(おそらく)誰かの手によって置かれたものについて写真と併せて紹介していきたい。

扇子と手紙

2022.08.18 撮影

松本市を流れる女鳥羽川のほとりに扇子が手紙を添えて置いてあった。罫線入りのメモ用紙に「少し借りさせていただきました。by 変態」と記されている。その言葉を信頼すると、この扇子は変態が少し借りたものということになる。変態が少し借りた扇子。

銀杏

2022.09.30 撮影

千本通り沿いにはイチョウが植えられていて、この時期になると銀杏がぼろぼろ落ちている。近所の住民がそれを拾って、処理して、干しているのだと思う。この近くに山があって、木々の隙間に果肉がどさっと捨てられていた。毎年の行事であれば、この銀杏の処理によって支えられている生態系があるのかもしれない。

小石と小枝

2022.10.15 撮影

公園の入り口に腰の高さくらいのコンクリートの塊があって、そこに小石と小枝が並べられていた。よく見るとナンテンらしきものもある。

どんぐり

2022.10.16 撮影

キノコのカサにどんぐりが置かれていた。もしこれが人の手によるものではなくて、落下地点がちょうどキノコだったのだとしたら、かなり盛り上がれると思う。VTR があればみんなでがやがや言いながら観てみましょう。

小石と小枝

2022.10.22 撮影

船岡山公園のあるところでも、小石と小枝スペースが展開されていた。小石が集まっていたり、小枝が並べられていたりというような秩序を観察すると、誰かの意思決定があるなと強く感じる。僕も小石をまとめたり、小枝を整理したりするようなことで、関与していきたい。