9月になること

夏の終わるとき、つまり9月になるときに、他では例えられない気持ちを抱かざるを得なかった。高校生の頃の僕にとって、夏の終わり、つまり8月の終わりは夏休みの終わりで、それは夏という祭りの季節の終焉を意味していた。そこに感傷的な何かを見出さないはずがなく、僕はその代弁をいくつかのミュージシャンに委ねることがあった。例えば、teto など。

teto というバンドは中学生と高校生の間くらいの時期に、BASEMENT-TIMESのとある記事 で知った(人には地下室タイムズをよく読む時期がある)。今にも殴り掛かってきそうな勢いで叫ぶボーカル・小池貞利をはじめとするメンバーの漂わせる刹那的な雰囲気や、その割に過去の記憶を掘り起こしてそれに想いを馳せるやわらかい態度を兼ね備える彼らに魅了されていた。あと韻の踏み方がとても気持ち良い。高校1年生の夏の終わりに彼らはミニアルバム『dystopia』をリリースした。そこに収録されている「9月になること」という楽曲が僕の(あるいは僕らの)センチメンタルな部分をほぼ完全に補完してくれた。

すべて過去形なのは、もう僕が当時ほど夏の終わりを特別視できなくなったから。大学生になり夏休みは9月に入っても終わらなくなったし、コロナ禍ということもあり「取り換えの利かない夏」を過ごさなくなった。あと今年の夏は雨が多すぎて熱で狂えなかった。暑いとすこしおかしくなれる。

高校のクラスメイトに僕を熱烈に推す人が2人いた。一方は僕にまつわる歌を書き、もう一方とは付き合うことになった。当時2人に8月が終わると「9月になること」を聴きたくなるよねというようなことを伝えたらしく、彼女たちはそれを今でも覚えていて、9月になるとその曲と僕のことを思い出すそうだ。僕が作った曲ではないのでおこがましいのだけれど、意図せぬ形で他人の記憶にマークできているのはなんだか嬉しい。

 

7月のはじめに、teto のギター・山崎陸とドラム・福田裕介の脱退が発表された。

8月のはじめに、teto の3rdアルバム『愛と例話』がリリースされた。

9月になっても夏休みは終わらない。そこに余計な意味を持たせるべきじゃない。