さびしさベースじゃない生産の生活

夏休みに足を踏み入れてから、アルバイトをする時間がうんと伸びた。勤務時間に柔軟性があって常時すべき作業・タスクのある仕事なので、講義が理由で退勤を余儀なくされる環境から抜け出したいま、朝から晩までシフトに入れてしまう。とても贅沢な理由だけれど、社会とかかわるのがとても楽しいのだと思う。出勤していない時間にすることと言ったら、本を読むかプールで泳ぐかインターネットを眺めるかだけなので、自分以外の人とやりとりをすることができるのが嬉しい。在宅勤務なのでチャットツールで文字を送り合うか、ビデオ会議とかのツールでちょっと話すかくらいの強度だけれど、だからこそこんな悠長なことを言っていられるのかもしれない。そのうえ給料ももらえる。これってとんでもないこと。

やるべきことがある状況に身を置くことはさびしさをかわすための技術で、たとえば期末レポートに迫られているときや、ゼミのグループワークに没頭しているとき、市民プールで目標の距離まで泳いでいるときや、アルバイトで作業をしているときに、さびしくなることはほとんどない。結果的に出勤することでさびしさに対処することができている。捌け口が働くこと一極集中になってしまったら良くない傾向(働くことじゃなくてもそう)で、意識的に分散していきたい。しかしそもそもさびしさベースで生活を捉えていることに黄色のシグナルが点滅しているかもしれない。さびしさはかなり要のテーマではあるけれど、それを念頭に置いたままになるとさびしくならざるを得ないというか、向かってくるさびしさを意識的にキャッチしてしまう可能性が出てくる。これはさびしさベースのよくないところ。

さびしさと近い位置にある漠然とした不安を対処するためには、現時点では就活をするのが手っ取り早いのは分かりきっているんだけれど、これがかなり手につかない。昨晩とりあえず就活サイトに会員登録をして、インターンシップに参加しようかとか自分をどのようにアピールしようかとか企業について調べてみようとか奮起したはいいものの、全く進まなかった。この数年で人と会うことに対するハードルがとんでもなく上がったせいで、会いたい人にも会えなかったのに、なんでわざわざ会いたくない人のところへ訪れなくてはならないんだと意味の分からないことを思っている。会いたい人に会えなかった経験ってどう糧にするんだ。もう就活とか関係ないけど、いかなる環境でも、会いたい人に会うという決断ができることは誇らしいことだと思う。数年前、自分から発生した会いたさをないがしろにしたことが致命的であったのだと明らかになってきた。

『本は読めないものだから心配するな』に書かれていた「生産の生活こそ、この世の最大価値だ」という一節がずっと頭にある。生産してますか? さっき映画制作に奔走している幼なじみから、そのクリエーションに一定の評価がもらえそうという連絡があって、それがとても嬉しかった。それって最大価値。僕も自分のできるやり方で生産の生活を送りたい。今は生産するのに絶好の環境にありませんか? あります。じゃあたとえば、Twitterでツイートするのとかは生産になるのかと考えたけれど、これは「101117 @EI Camino de Santiago」でいうところの社会に消費される主体になっているやつなので違いますね。それなら僕にできるのはなんなんだとなると結局ブログになるのでブログを書くことにした。このような日記は仕掛品みたいなもので、外へやっても問題ない生産物とはちょっと距離がある。結論何が言いたいかというと、時間と愛情をかけた立派な生産をブログでしていきたい。そういった決意表明を、なすと豚バラの炒め物を食べて、シャワー後にガツンとみかんをかじってからしている。この生産はさびしさを念頭に置いていない生産。最大価値を見据えている。