ほめられたとき

15時からゼミで研究の経過報告をする必要があったので、起きてすぐパワーポイントのスライドを編集していた。起きてすぐと言っても11時を過ぎたくらいで、昨晩3時までグループの人たちと通話をしながら作業をしていたから。週末は黙々と作業をしていて気が狂いそうになっていた。グループワークといえどそのほとんどを自分が進めていて、それぞれ優先順位が違うことがわかる。複数人で取り組めるはずなのにひとりで作業するのは寂しいとはいえ、それぞれ意思決定は異なるので研究に参加しないことは咎められないし、自分は研究することを楽しいと感じているので、まあこんな感じでしょう、という感覚がある。数日前から首を痛めていて、頭もズキズキ痛むので、体調管理を心掛けたい。

お好み焼きを食べたくなって、大学へ行く前に近所のお好み焼き屋へ向かったら、臨時休業。近所の中華料理屋も、定休日。上七軒の「ふた葉」といううどん屋でけいらんうどんを食べた。しょうがが効いていて身体が完全にぽかぽかになった。いくつかの鼻水も流した。

かなりいい感じにまとめたので、先生からのリアクションもよかったし、違うグループのゼミの人からも好評だった。自身の研究がうまくまとまっていると自覚していて、他者からも同様に評価されると嬉しい。自他の認識が噛み合う気持ちよさがある。ポストにボールを渡されたタイミングにバウンズ・パスをして、バックドア・カットしたレシーバーへボールが届く気持ちよさがある。グループの人からは、まとめた内容がいい感じでいいですね、というよりは、週末作業をしていただいてありがとうございました、という旨を伝えられたので、おれはあり得ないほど頑張ったので労ってくださいと伝えた。いやいやそんなことないですよと謙遜するとその場が円滑に回るが、相手の予想に反して偉そうすぎる態度をとると、ウケるので楽しい。これも自他の認識が噛み合っているからナイスコミュニケーションになるのだと思う。

たまに意外なタイミングでほめられるときもある。グループの人のひとりがが「中村は大学で出会った人のなかで最も素晴らしい」と熱心にほめたたえてくれた。これは言いすぎだと思う。僕はそこまで素晴らしい人物だと思っていないので、自他の認識にズレが生じて、面食らってしまった。先のセオリーに従えば、いかにも私が最も素晴らしい人物ですと言うのがよかったが、そこまで機転が利かなかった。中村がインスタグラムのストーリーにあげた書籍をスクショしてメモしているだとか、就職活動で行き詰ったとき中村ならどうするのだろうと考えるとさっき言っていた。ゼミでは勇猛果敢に研究に励む姿しか見せていないので、こうした偏った人物像が築かれている。この問題は、とりわけソーシャルメディアで発生しそうで、個人をないがしろにしている。とはいえ、誰かのすべての側面(もしそれがあるとするなら)を捉えることはできないので、仕方がないというか、当然かもしれない。ただ、限度はあると思う。あと、中村は散髪のタイミングがさっぱり掴めないので、散髪する瞬間を見たいとも言っていた。限度ってものがある。

嬉しかった言葉でいうと、昨晩通話しながら作業をしているとき、ある人が、中村が豚汁にハマっていると言っていたその日の晩に豚汁を作ったと言っていた。豚汁は作って、さらに食べた方がいい。作っているときそのことを僕に話すのだと考えていたのだと言っていた。これは嬉しい。ナイスコミュニケーション。

あとゼミで内定出ている人いるらしいけどまじすか。自己PR動画を撮ることもあるらしい。自己PR動画ってなんですか。水曜日は祝日だって。ですって。最近研究のために作業したり論文読んだりしかしてなかったから、読めていなかった本を読んで過ごす。

いちばん好きなブログを書く人が今年中にインターネットをやめると宣言していた。とても悲しい。どの最新の記事も最後の記事のような、いまにも更新が止まってしまいそうなブログをとてもとても愛している。