戸谷洋志『スマートな悪』

戸谷洋志『スマートな悪 技術と暴力について』講談社

早急に片付けるべきタスクを終えて、まとまった時間ができたので読めた。まとまった時間がなくても本を読めるようになれたらいいね。細切れの時間でソーシャル・メディアを眺めるんじゃなくて、細切れの時間をまとめて本を読むためのまとまった時間をこしらえていきましょう。てか、夕方から期末試験を控えてるし、提出しなくちゃいけないレポート課題が3本あるんだけど!

本書では、人間がテクノロジーのシステムに自らを最適化することで、その一部として組み込まれ、主体性を喪失し、最大の効率を追求する「機械の原理」によって無自覚のままに暴力に加担してしまうことを「スマートな悪」と定義づけて、その対処法を模索している。ある特定のシステムに所属せざるを得ない人間にとっては、システムの閉鎖性そのものを否定するのではなく、あるシステムから別のシステムへスイッチする「システムの複数性への開放性」を維持すべきだという。そこで筆者は、閉鎖的なシステムに帰属する「歯車」に対して、潜在的に転用可能な道具として「ガジェット」を位置づけ、それがテクノロジーの絶対的に閉鎖的なシステムに抵抗すると提案している。かなりむりやりだけど、概要はこんな感じ。

おもしろいのは、あるシステムに置かれたアクターがそのルールに従って意志決定せざるを得ないこと。そしてそのシステムから完全に離脱することは不可能で、あるシステムを否定して、別のシステムへ乗り換えたとしても、そこもまた同様に閉鎖的なシステムでしかなく、したがって、開放的であるということは、複数の閉鎖的なシステムへ開かれているということであるという視点です。ゼミの人と政治的な立場について話しているときに、ある人がなるべく中立であろうと努める態度をみてなんやこいつ!って思ったんだけど、そういうことな気がする(どういうことですか!)。

ちなみにこの本は友人から借りたものです。貸してくれてありがとう!

アンダースによれば、そもそも製品とは、わたしたちが自由に使ったり、使い方を変えたりできるようなものではない。むしろそれは、特定の文脈においては使わざるをえないものであり、そしてその使い方はすでに決定されているものでもある。p. 42

ある特定の文脈やネットワークに埋め込まれており、その用法はすでに規定されているという製品観おもしろい!

アンダースによれば、こうした機械的な生産過程は、自動車工場だけではなく、「今日の産業、商業、行政の仕事」においては自明のものとなりつつある。例えば大型商業施設では、ひたすら段ボール箱のバーコードを読み取り続けている人がいるだろうし、レストランではひたすら玉ねぎを刻み続けている人がいるだろう。そうした過程に飲み込まれるとき、人は自分が携わっている目の前の仕事だけに関心を持つようになり、それが結果的にどのような帰結をもたらすのか、エンド・プロダクトが何であるのかをイメージしなくなる。 p.109

システムが人間にそうすることを求めていて、無自覚にそうなってしまいますね! ここでは生産過程に言及しているけれど、消費のフェーズでも似たようなことが起きているような気がする。

機械は、機械の原理に従って、ただ効率的に作動し続けることができる。しかし人間には機械のように同じことを繰り返すことができない。人間は同じ動作であっても失敗したり、疲れたり、気が散ったりするからだ。したがって、順応主義社会において、人間は最適化されたメカニズムに対して完全に適合することはできず、そこに綻びをきたすことになる。p. 118

これって、ロイ・リチャードグリンカー『誰も正常ではない』(まだ読んでない)とか、熊代亨『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』で言及されているような話かも。人間に求められるメカニズムへの最適化の水準って、ドコドコ上がっていませんか! どうしていけばいいんだ。

90年代、高度にグローバル化した資本主義的消費社会は、一つのスマートなシステムだった。そこでは、資本こそが現実を説明する唯一の原理であり、それ以外の雑多な要素は、すべて資本主義の原理へと還元された。あらゆる事象が資本によって約分され、現実はその複雑性を失い、効率化された。p. 151

これは村上春樹の分析を筆者が解釈したもの。このことをずっと念頭に置いていきたい!

追記 2023.01.26

そういえば! 本書は、日本における第5期科学技術基本計画で全面に打ち出されている理念、「Society 5.0」の倫理性を問うところから始まるんだけど、高校のときの校長が事あるごとに「Society 5.0」が重要ですみたいなことを口走っていて、なんかよくなさそうだな~と思いながら聞いていたことを思い出した。「Society 5.0」にはティーンエイジャーでも感じられるほどの微妙さを漂わせている。