アンインストールして世界の感じかたを変えようとする

  • Twitter アプリをアンインストールした。これからは Google Chrome などウェブブラウザを通して Twitter を閲覧することになる。
    • ここ数か月の動向を踏まえてプラットフォームとして利用することに嫌気がさしたのもそうだけれど、それ以前から Twitter に消費されることから逃れたいと思っていた(が、かなり困難だった)ので、削除した。
    • 1月末に投稿したエントリで、Android 端末から Twitter アプリを削除したことを書いていた。そこには iOS 端末からも消すことになるかもね、と記してあって、2か月ほどで実行されたことになる。
      • てかこのエントリまじでいいこと書いてある!
    • 一足先に Twitter のアカウントを消した、友だちからのメールに、ソーシャル・メディアをやめてみることは世界の感じ方を変える体験だと書かれていて、それがかっこよかったからというのもある。
      • ブログもソーシャル・メディアのひとつだけど、たとえば Twitter とか Instagram とかと比べたとき、あまりにも遅い性格を持っているから、自分が過度に消費されないという点で、否定的な立場をとっていない。
  • メールの友だちに感化されて、スニーカーを履くときにその都度靴ひもを結び直すようにしている! 襟を正すような気持ち。
    • 装いのことを装いで喩えるのなんかおかしいかも!
    • スニーカーを新調したいけれどそんなお金ないので靴ひもを新調することにした。GETABACO のコットンのシューレース
      • コルテッツは前からコットンの靴ひもにしていて、BB550 は付属品を使っているんだけど、純綿のシューレースのほうが明らかに質がいい。むすび心地が全然違うし、ポリエステルの光沢がないから上品に見えなくもない。
  • 最近聴きはじめた Podcast の番組のなかで、マッチングアプリで出会った人でパートナーの候補として1番目の人と3番目の人が有力で前者は○○だけれど後者は△△で、みたいな話が繰り広げられていて、もやもやしたんだけど、ぼくだってこういうことをしていることってある。
    • どの部分がどのようにもやもやしたのか考えてみるとよさそう
      • 他者をまるでコンテンツのように扱っているところ ← そうせざるを得ない構造だし、僕もそうしている
      • パートナー候補を選ぶ立場にあるという特権性を振りかざしているところ ← 僕の認知の歪みかもしれない
      • マッチングアプリを利用しているところ ← 現状そうせざるを得ない環境だし、僕はそこに参加する必要がないから言えるだけ
    • 読書会をしている友だちのほうが大学の知人よりも話しやすいとか、そういうことを感じることがあって、これも比較のひとつだし、こういうことばかりしている
      • 大学の知人に積極的に自己開示しているつもりだったけれど、そう受け取られていなかったようだったのはちょっとショックだった
    • 他者をコンテンツと捉えるとはどういう意味なのか、またそれをなぜよくないと感じるのか、について考えていきたい。
      • 道徳的によくないのでは? それはよりよい生き方ではないのでは? みたいなふんわりとしたアイデアが根っこにあるだけで、明確なロジックとかはない
      • 対人関係の築きかた、ミュージシャンやアイドルといった部分的な人格をコンテンツとして切り売りすることをビジネスとしている人への態度の向けかた、他者を消費する(記号として捉える?)ときの強弱、など
  • 生演奏を聴いてからも Black Country, New Road の作品に熱狂し続けていて、ライブアルバムはもちろん、過去の作品も繰り返し聴いている。
    • Spotify で公開されているプレイリストも楽しくてよく聴いている。特に気に入ったのは、Geese の Cowboy Nudes です。僕が気に入る音楽の特徴ってなんなんでしょうね。
  • 学部の演習の指導教員と呼んでいる文献では、共同行為論について触れられていて、その主な論者と彼らの主張の概要について勉強していた。
    • 簡単な説明しか学んでいないので、現状の詳しい論点などは知らないんだけれど、時間とか空間を隔てたときの共同行為はどのように理解すればよいのか気になった
      • たとえば、舗装された道を歩いているとき、その道の工事に携わった人の意図に沿う形でわたしが歩いているのであれば、円滑に道を歩く(歩かせる)という共同目標が達成したことになりそう? そんなこともないか
      • そもそも、ひとつの共同行為にも手段と目的は複数あって、すべてがワン・ツー・ワンで対応しているというわけない
        • わたしが道を歩いているのは、円滑に目的地に着くためだし、そこでデートするためだし、運動不足だし、みたいな
      • 上記のことはまじで適当に書いていて、僕が書きたかったのは、ブログをすること(blogging)が共同行為的だなと感じたということです
        • 誰かに読まれることを念頭に書いているので? なんか Searle っぽい?
        • わたしもあなたもブログを書いていて、お互いほどほどにブログを続けること(速いソーシャル・メディアから抜け出すこと、ブログに文章をストックさせること、コミュニケーションを通じて仲良くなること)を目標としたとき、あるときそれが共同目標になりえるので、片方が書くことがもう片方を触発したり、リアクションをすることで新しいエントリを引き出したりしている。
          • はてなブログのコピーは「書き残そう、あなたの人生の物語」だけど、実感として書き残しているのは、「わたしとあなたの物語」だし「わたしたちの物語」になる側面があるみたいな。
            • 「書き残そう、あなたの人生の物語」を掲げるサービスってかなりかっこいい。コンテンツのクリエイターに成り下がるのではなくて、人生の物語を書き残すことに価値を見出しているという意思の表明。わたしとあなたで書き残していくしかないですよまじで。