マーク・クーケルバーグ『自己啓発の罠』

マーク・クーケルバーグ『自己啓発の罠』青土社

大学生協の書店で書籍15%オフの期間を狙って購入。Twitterのタイムラインで見かけて気になっていたやつ。自己啓発の罠、というタイトルからいい感じなのを予期させる。実際いい感じの本だった。ナイス。

本書では、哲学史を源泉に自己啓発の歴史を捉え、その社会的・政治経済的位置付けや、テクノロジーの果たした役割について記述され、最後は解決策として自己啓発の新たなアプローチが提案されている。とりわけ第4章「政治経済」はパンチラインが盛りだくさんでおもしろかった。

ソーシャルメディアでのコミュニケーションそれ自体が、自己開示、自己知、自己啓発文化の一部となった。かつては問題を抱えた魂の秘密とみなされていた事柄(神や、神の代理人、あるいはセラピストにしか明かされていなかったこと)が、現在ではオープンになり、(ほとんど)だれでもアクセス可能となっている。(p.45)

デジタル技術と関わって人々は、自分を向上させるために働くだけではなく、それによって、彼らのデータを利用・販売・監視・操作する自由な資本家たちのために働いているのだ。逆説的なことに、現行の資本主義は、自己啓発を脅かすどころか刺激している。(p.58)

自己啓発の手助けになるようにソーシャルメディアやアプリを利用すると、人々はクリスチャン・フックスが「デジタル労働」と呼んだようなやり方でコンテンツやデータを作成することになる。私たちは、広告主にこのコンテンツやデータを売る人々のために働いているのだ。(p.65)

私は私のためのプロジェクトとして、Twitterで感情を吐露し、Instagramに食べたものの写真をアップし、ブログに生活のことについてつづっている。印刷された文章を読んだり、罫線のノートに向き合ったりする静かな時間を放棄し、それに比べてあまりにも速すぎるテクノロジーを用いて自己開示を嬉々として試みている。私企業の市場やサービスに関与し、その過程の中で私たち自身が商品化されている。そのためテクノロジーを用いた自己啓発・自己開示は奨励される。

ビューティーサロン、アンチエイジング治療、滋養強壮、アドバイス、ダイエット、フィットネス、伝統医薬、オルタナティブ医療、スパ、ウェルネス・ツーリズムが、長時間スクリーンを見つめた後や、配達の長いシフトの後で、少しでも気分を良くするために使われる。かくして人々は資本主義に二重に搾取される。一つは、労働時間パフォーマンスを改善しようとする労働者として。もう一つは労働から回復を図る余暇時間に「ウェルネス」を消費する消費者として。(p.59)

今日の人々は、フィットネスやヨガ、オーガニック食品、あらゆる種類の自制などを通じて、徳性や鍛錬を誇示している。下層階級は自分を管理できないとして、肥満が不道徳の徴候と見なされる。そして自己啓発にはお金と時間がいる。(p.71)

中流以下の人々は監視下に置かれ、テクノロジーによるサポートを必要とし、そして「監視資本主義」を肥え太らせていく。オフラインで自己啓発をし、個人間サービスを利用するというのが、新たな贅沢なのである。リラックスし、本を読み、おしゃべりをする! ネットに振り回されることなく、1%の人だけが享受できる排他的な自由を楽しむ。常にスマートフォンにつながれているのは、データ労働プロレタリアートであり、「99%」の人々だ。(p.73)

声に出して読みたくなるトレインスポッティングみたいなやつありあますね。労働者として消費者として資本主義に取り込まれている! 強力なテクノロジーが普及した現行の環境下では、もはやオフラインでの自己啓発はほしくても手の届かない贅沢品と化しているという。スマートフォンを携帯していると、ついソーシャルメディアを眺めて時間を費やしてしまう。しかしながらそれを手放すのはほぼ不可能で、日々の生活を維持するためにそれを握り続けていないとならない。

私たちの自己は「関係的」ということである。他者との関係および、広い環境の中でのみ、自己は存在し改善することができる。(p.103)

終章では、自己に固執するのではなく、自身が他者との関係で成立する存在であり、歴史や文化、テクノロジーに規定されることを念頭に起きつつ、自己の理解に努める態度としての自己啓発が提案されていた。ここでは、自分自身をその人生を物語るものであるべきとしつつ、その物語を完全に自由に、自律的に、コントロールすることはできない、限定的な著者性であるとして「共著者」という言葉が用いられていた。これかなり気に入りました。他者に目を向けろとのこと! 他者と環境にこそ自己啓発のチャンスがある!

ほめられたとき

15時からゼミで研究の経過報告をする必要があったので、起きてすぐパワーポイントのスライドを編集していた。起きてすぐと言っても11時を過ぎたくらいで、昨晩3時までグループの人たちと通話をしながら作業をしていたから。週末は黙々と作業をしていて気が狂いそうになっていた。グループワークといえどそのほとんどを自分が進めていて、それぞれ優先順位が違うことがわかる。複数人で取り組めるはずなのにひとりで作業するのは寂しいとはいえ、それぞれ意思決定は異なるので研究に参加しないことは咎められないし、自分は研究することを楽しいと感じているので、まあこんな感じでしょう、という感覚がある。数日前から首を痛めていて、頭もズキズキ痛むので、体調管理を心掛けたい。

お好み焼きを食べたくなって、大学へ行く前に近所のお好み焼き屋へ向かったら、臨時休業。近所の中華料理屋も、定休日。上七軒の「ふた葉」といううどん屋でけいらんうどんを食べた。しょうがが効いていて身体が完全にぽかぽかになった。いくつかの鼻水も流した。

かなりいい感じにまとめたので、先生からのリアクションもよかったし、違うグループのゼミの人からも好評だった。自身の研究がうまくまとまっていると自覚していて、他者からも同様に評価されると嬉しい。自他の認識が噛み合う気持ちよさがある。ポストにボールを渡されたタイミングにバウンズ・パスをして、バックドア・カットしたレシーバーへボールが届く気持ちよさがある。グループの人からは、まとめた内容がいい感じでいいですね、というよりは、週末作業をしていただいてありがとうございました、という旨を伝えられたので、おれはあり得ないほど頑張ったので労ってくださいと伝えた。いやいやそんなことないですよと謙遜するとその場が円滑に回るが、相手の予想に反して偉そうすぎる態度をとると、ウケるので楽しい。これも自他の認識が噛み合っているからナイスコミュニケーションになるのだと思う。

たまに意外なタイミングでほめられるときもある。グループの人のひとりがが「中村は大学で出会った人のなかで最も素晴らしい」と熱心にほめたたえてくれた。これは言いすぎだと思う。僕はそこまで素晴らしい人物だと思っていないので、自他の認識にズレが生じて、面食らってしまった。先のセオリーに従えば、いかにも私が最も素晴らしい人物ですと言うのがよかったが、そこまで機転が利かなかった。中村がインスタグラムのストーリーにあげた書籍をスクショしてメモしているだとか、就職活動で行き詰ったとき中村ならどうするのだろうと考えるとさっき言っていた。ゼミでは勇猛果敢に研究に励む姿しか見せていないので、こうした偏った人物像が築かれている。この問題は、とりわけソーシャルメディアで発生しそうで、個人をないがしろにしている。とはいえ、誰かのすべての側面(もしそれがあるとするなら)を捉えることはできないので、仕方がないというか、当然かもしれない。ただ、限度はあると思う。あと、中村は散髪のタイミングがさっぱり掴めないので、散髪する瞬間を見たいとも言っていた。限度ってものがある。

嬉しかった言葉でいうと、昨晩通話しながら作業をしているとき、ある人が、中村が豚汁にハマっていると言っていたその日の晩に豚汁を作ったと言っていた。豚汁は作って、さらに食べた方がいい。作っているときそのことを僕に話すのだと考えていたのだと言っていた。これは嬉しい。ナイスコミュニケーション。

あとゼミで内定出ている人いるらしいけどまじすか。自己PR動画を撮ることもあるらしい。自己PR動画ってなんですか。水曜日は祝日だって。ですって。最近研究のために作業したり論文読んだりしかしてなかったから、読めていなかった本を読んで過ごす。

いちばん好きなブログを書く人が今年中にインターネットをやめると宣言していた。とても悲しい。どの最新の記事も最後の記事のような、いまにも更新が止まってしまいそうなブログをとてもとても愛している。

光をいれる

出かけるまで時間に余裕がなかったのに、いつもはトーストとコーヒーで済ませている朝食を、たまごかけご飯と豚汁にすべく奮闘した。一昨日作った豚汁がわずかに残っていたので、里芋を煮て味噌を溶かしてそこに豚汁を加えて増量した。ボリュームが増すし、他の野菜は味が染みていておいしい。身支度を済ませて、洗濯物をすべて干し切って、家を飛び出した。京都に来ていちばん速い自転車に乗って、新風館へ向かった。


アップリンク京都で、稲垣吾郎演じる市川が浮気をされる映画『窓辺にて』を観た。光の使われ方が印象的な映画だった。あと、浮気と不倫をしているやつらがうじゃうじゃ出てくるほんとうにどうしようもない物語だった。俺は貞操観念があまりにも高すぎて、浮気とか不倫とかの描写を一切楽しめない。浮気をしている人を、人生において、明らかに・取り返しが・つかない人としか見られなくなってしまう。各人いろんな恋愛のやり方があると分かっているが、浮気をする人間は、俺の持ち合わせているどのものさしで測っても、完全に無意味・無価値で終わってるなと思ってしまう。そういった恋愛模様を「大人の恋愛」みたいなパケージするのもおかしすぎる。もっとまじめに人間関係やれよ。いつか観た『愛なのに』も同様の理由で完全に終わっていた。その一方で『ドライブ・マイ・カー』はめちゃくちゃ好きだったので、自分のことが本当にわからない。

いわゆる not for me な作品だったんだけど、ある程度積極的にそういった作品にも触れることで、自分の嫌いなものについての輪郭をはっきりさせる作業を厭わない態度もあったほうがいい。『窓辺にて』もトレーラーを見たとき、観たら嫌な気持ちになるだろうなと思って、案の定嫌な気持ちになった。愚かすぎる。ゴシップに唾を吐くだけのおじさんに着地したらどうしよう。バイク整備士の水木優二という青年が、カラッとした性格でほんとうに素晴らしくて、僕はこいつになりたいと思った。市川はことあるごとに「○○はどうしたいの?」と相手の意思を尋ねる仕草をしていて、こうした人との距離感の測り方もあると思いつつ、自分の主体性についてはおろそかにしていて、そうなりたくないロールモデルがひとつ増えた。「書くと過去になる」という言葉が印象的だったし、なんとなく分かるような気もしたけれど、これは俺が分かる気になっているだけだと思う。なんだかんだ楽しく映画を観られてよかった。


JOHN SMEDLEY 京都店で開催されていた「うつわ祥見 KAMAKURA セレクト展」を訪れた。昨日の朝、知り合いのブロガーの方がこのポップアップを教えてくださり、ほくほくとしながら予定を入れたのでした。新風館へ映画以外の目的で来るのはこれが初めてだったかも。ディスプレイされる素敵なうつわを1時間弱眺め続けて、美しく光を取り込む〈巳亦敬一〉のガラスのボウルと、中央に琥珀のような輝きのある〈鶴見宗次〉の手びねりの白皿を買うことにした。間違いなく、俺の食卓がより一層素晴らしいものになるでしょう。

〈巳亦敬一〉「新スキ花ボール」と「オイコス マダガスカルバニラ」
〈鶴見宗次〉「白 6寸皿」とブリの照り焼き


船岡山公園で夕景を眺めながら時間を過ごした。じっくり夕焼けを望んだ。日が沈むときに音がしないのはおもしろい。このごろ週末にお金を使いすぎている。映画を観ると映画のような生活に憧れるけれどそんなものはなくてまじでこなしていくしかない。光をいれるためにお金をじゃぶじゃぶ使っている。おい。正気に戻って腹に力を込めてこなしていきたい。