Summer Reading 2023

夏にもりもり本を読んでいこう!と意気込み、読書に励む「サマー・リーディング」という取り組みをしている。

これは大学4年生の夏休みに読んだ本の記録です。

読んでいない本について堂々と語る方法

ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』筑摩書房

ある書物について語るということは、その書物の空間よりもその書物についての言説の時間にかかわっている。 p. 243

ある本を読むことは、それとは別の本を手に取らず開きもしないということと同時的であるという点で、本を読まないことと切り離せない関係であると本書では述べられている。また本書では、たとえ「本を読んだ」としても(本に記されている文字の一字一句を逃すことなく読んだという意味でない完読であったとしても)、それはしばしば忘れてしまうものだとも書かれている。昨年の夏休みから「サマー・リーディング」として、長期休暇中に読んだ本を記録しているが、そのほとんどは鮮明にはあるいは全く覚えていない。ただ、タイトルを読めば、その本が(僕にとって)どんな位置づけであるかはある程度思い出すことができる。

ある本を全然読んだことがなかったとしても、つまりその本の内容はよく知らなかったとしても、本と本との「位置関係」が分かっていれば、どんな本の話題にも対応できる(p. 34)。2年ほど前に本書を読んだとき、「全体の見晴らし」に着目するというこの考え方に意識的になったことで、本はもちろん、大学で学ぶことやその他さまざまな知識について、それらの位置づけを把握する技術を身に付けることができた。振り返るとかなり役に立っていると思うので、そういう点では本書はかなり実用書だと思う。この本は特に小説について言及しているが、社会科学についてもある程度同じことが言えると思うし。

読んでない本について語ることは、作品に潜在する可能性を見出し、置かれたコンテクストを分析し、他者の反応に注意を払い、人の心を捉える物語を語る能力が育まれるという(p. 270)。とりわけ僕は、ある本の置かれるコンテクストを理解すること、その本がどのようにカテゴライズされているのかに結構関心があると思う。

8月1日。

傷を愛せるか

宮地尚子『傷を愛せるか 増補新版』筑摩書房

発見その三。むだがない、ということの重要さ。いかに身体からむだな力を抜くか、いかによけいな動きをしないかが、手足をどう動かすかより、実はいちばん重要だということ。身体をまっすぐにして、よけいな力を抜いて、壁をぽーんと足で蹴れば、水の中を身体はすーっと進んでいく。p. 184

僕は中学2年生まで10年間ほどスイミング・スクールに通っていたので、自分が水の中にいるときどのくらい力まずにいるかについてあまり自覚的になれない。「溺れそうな気持ち」には、泳げる人と泳げない人との間には大きな溝があるのだと書かれている。溺れそうになっているときに「身体の力を抜いて!」と言われても耳に入ってこない。さまざまな生活の中で、溺れそうになるときもあれば、「なんで泳げないの!」と思うときもある。そのどちらもあるということ。

「水の中」では、スキューバダイビングの最中に呼吸が乱れ、意識を失った体験について記されている。そこで著者は意識が遠のく中で「喜び」や「解放感」を抱いたのだという。「わたしが向かっていたのは、死ではなかった。ただ揺れる水の影と輝く光、そして果てしなく広がる、大気と波音と希望に満ちた空間だった(p. 30)」。

つまり、男性のヴァルネラビリティとは、男らしくなければならない。強くなければならないという社会規範そのものであるのだ。「男のくせに」という言葉で縛られ、逃げたくても逃げられず、弱音を吐きたくても吐けず、助けを求めたくても求められず、ひたすら「鎧」を重ねて着込んでいく。pp. 126-127

「男らしさ」とはどういうことなのかについて考えることがよくある。社会的な共通理解としてはある程度定まっていそうだけれど、それは従来型の「男らしさ」だし、でも他にどんなのが想像できるかというと特に何も想像することができない。「男らしさ」から降りたいとしばしば考えるけれど、それってどういうことなのかについて学ぶ機会を設けたほうがいいような気がする。著者は、自然体のままの男性でいること、「弱さを抱えたままの強さ」を目指すことが意義深いのではないかと述べていた。そういう考え方もある。

8月2日。

勉強の哲学

千葉雅也『勉強の哲学 来たるべきバカのために』文藝春秋

アイロニーに主導権をとらせたままならば、全方位に、あらゆる問題にツッコミを入れ続けながら、決して到達できない究極の真理を夢見続ける、という人生になりかねないのです。p. 136

大学3年生つまり1年半前から本格的に始まったゼミでのグループ研究や、この春から大学院で取り組んでいる研究は、本書における自己破壊的な勉強ないしアイロニーからユーモアへの折り返しと享楽的なこだわりによる仮固定の取り組みなんじゃないかと思って、再読した。実際そう。

初めて読んだのが高校2年生(2018年12月)で、その次に大学2年生(2021年8月)に読んでいたので目を通すのは3度目ということになる。大学やゼミでの学びのおかげで自分の体験を参照項としながら読み進めることができたし、これまでよりも本書が何が言いたいのかがようやくある程度は理解することができたと思う。5年弱で「ちんぷんかんぷん」の状態から「言わんとしていることは分かる」までなれたのってかなり偉大。教育とか、環境とか。

何かを「理解」するというのは、結局は「だいたい」でしかありません。究極の理解なんてありえません。しかし、勉強においてひじょうに重要なのは、自分のだいたいの理解と、正確な「文言」を分けて認識し、自分の理解を、テクストの特定の個所にきちんと「紐づける」ことです。 p. 197

前回、前々回と流し読みしていた第四章「勉強を有限化する技術」を興味深く読むことができた。書いてあることをそのままそれとする「言語のプロ・モード」という態度と、自分なりに解釈して理解するつまり別の言葉に置き換えてだいたいの理解をする「言語のアマ・モード」という態度との区別と、その両軸で勉強を進めること、「自分の知識を、出典と紐づける(p. 199)」というアイデアはこれから勉強を進める上で参考になった。

あと、同章の読書論についてのセクションで、ピエール・バイヤールの『読んでいない本について堂々と語る方法』が引かれていた。著者の感覚だと「読書というのは、知らない部屋にパッと入って、物の位置関係を把握するようなイメージ(p. 191)」だそうだ。また読書で重要なのは「自分の実感に引きつけて理解しようとしないこと」とも述べられている。全体を見晴らすことと、納得して読もうとしないこと。後者はけっこうテクニックが要ると思う。

8月3日。

デッドライン

千葉雅也『デッドライン』新潮社

荒々しい男たちに惹かれる。ノンケのあの雑さ、すべてをぶった切っていく速度の乱暴さ。それは確かに支配者の特徴だ。 pp. 148-149

彼女への欲望は、彼女をどうかしたいということだったのだろう。抱く、というより、その身体に行く、その身体という場にイク。ある距離が間にあって、彼女に対して斜生するのではない。「挿入側として」という分離なしで、彼女の身体への一致として挿入する、のかもしれない。 p. 178

ドゥルーズの議論は全く知らなくて追いつけられなかったんだけど、ちょうど春学期に履修した講義でマルセル・モースの『贈与論』におけるポトラッチやクラのシステムの概要について学習していたので、僕の理解と照らし合わせながら読めたのが楽しかった。

知子はゴミ袋を持って玄関を開けた。何か甘い匂いがする。少し歩くと、ドアを薄く開けている部屋があり、おそらくその黒い隙間からお香の煙が漏れる。ココナッツの匂いだ。サーフショップみたいな匂い。その隙間はマジックで塗りつぶしたみたいに真っ黒な直線で、そのからかすかにテレビの笑い声が聞こえてくる。その匂いの中で何をしているのかわからないが、匂いの原因がわかってとりあえず安心した知子は、外階段からゴミ置き場へと降りていった。 p. 154

それまで「僕」の一人称だったのが、ここで露骨に三人称視点へ切り替わったのが印象的だった。これは「なる」ということなんだろうけど、そういうことなんだろうとしか分からなかった。

文章それ自体はさっぱりしていて読みやすかったが、何も分からなかった、(そもそも小説に論点があるか分からないが)論点を掴めなかった。この小説ってかなり難しいことが書かれている。どのくらい難しいかというと、ざっと目を通しただけではまともな感想が浮かんでこないくらい。

8月4日。

面白くて刺激的な論文のためのリサーチ・クエスチョンの作り方と育て方

マッツ・アルヴェッソン、ヨルゲン・サンドバーグ『面白くて刺激的な論文のためのリサーチ・クエスチョンの作り方と育て方 論文刊行ゲームを超えて』白桃書房

現在多くの社会科学分野では研究者の大多数が、リサーチ・クエスチョンを作成する際には、その根拠としてもっぱらギャップ・スポッティング的な発想を採用している、という事実から目をそらすべきではないだろう。 pp. 69-70

理論が面白くて影響力があると見なされるようになる上での決定的な要因は、それが読者の日常生活のあり方に関して通常の状況では自明の事柄として認められている前提の幾つかに対して挑戦するような内容を含んでいる、ということである。 p. 73

本書は、社会科学の領域における研究上の問い(リサーチクエスチョン)を、従来的な「ギャップ・スポッティング」ではなく、既存の理論の根底にある前提を「問題化(ploblematization)」する作業によって構築することで、より「面白い(interesting)」研究になるだろうと主張する。

先行研究がこれまで見落としてきた課題を見出すことでリサーチ・クエスチョンを導出する「ギャップ・スポッティング」は、先行研究が想定する(暗黙の)前提に疑問を投げかけるような挑戦的な研究を導かないという点で問題を含んでいると本書は指摘する。そこで著者らは、先行研究の根底にある前提に対して批判的検討を積極的に行うことで、自明視された発想や視点を問い直す「問題化」の手続きによって、リサーチ・クエスチョンを導くことが有効であると述べている。

本書はおそらく基本的には研究者に向けて書かれたものであるため、卒業論文ないしは修士論文を控える学生が参考にするには多少ハードルが高いようにも感じたが、社会科学系の論文刊行プロセスの抱える問題や本書で提案されている「問題化」の手続きはとても興味深かった。また本書では実際に、組織におけるアイデンティティに関する研究と、ジェンダーの実践と減却実践についての研究を対象として「問題化」の方法論を適応することで、リサーチ・クエスチョンを導出することに取り組んでいて鮮やかだった。

例えば、Burawoy(1979)は、労働研究を専門とする研究者は、「なぜ労働者はもっと一生懸命に働かないのか?」という問いを出発点にしたり、その上で、[「相場感」として労働者のあいだで共有されている]リーズナブルな労働量をめぐる規範について調査したりするべきではないと主張した。Burawoy によれば、研究者が出発点にすべきなのは、むしろ「なぜ労働者はあれほどまでに一生懸命働くのか?」という問いだというのである。 p. 101

学術研究にはさまざまな種類の前提が存在しているが、著者らはそれらを、学派内、ルートメタファー、パラダイム、イデオロギー、学術界というレベルに区別している。引用部はイデオロギー的な前提に関する記述である。自分が研究するには、イデオロギー的な前提に疑問を投げかけるのはかなり大きな仕事なので難しいが、どのレベルの前提を所与としているかという点を理解することに取り組みたいと感じた。

8月5日。

セックスする権利

アミア・スリニヴァサン『セックスする権利』勁草書房

フェミニズムは哲学ではなく、理論でもなくて、視点ですらない。世界をすっかり変えようとする政治運動である。それは次のように問いかける。政治、社会、性、経済、心理、身体の麺で女性の従属を終わらせるというのは、どういうことだろう? 答えはこうだ。わからない。試してみよう。 p. vii

「まえがき」の書き出しかっこよすぎ!!! 本書は、「政治の問題であり、経済の問題であり、文化的規範の問題であると同時に、きわめて個人的で強い感情を喚起する問題でもある(p. 256)」セックスを取り巻く諸問題について述べられている。解説でも触れられていたが、かなり反復的(?)な議論の進め方で、まどろっこしさがあるものの、いくつかの立場の主張をていねいにすくいつつ批判的に検討していてすごい仕事だった。

フェミニズムと反資本主義の関係も同じである。(中略)Covid-19 のパンデミックによって浮き彫りになったのは、自己完結した核家族という家父長制イデオロギーのせいで、女性だけでなく男性も、ある生きかたのなかに閉じこめられていることである。それは、現代資本主義の矛盾のなかで「不可欠」であると同時に使い捨て可能と見なされている生きかたである。 P. 245

資本主義批判が経済関係の批判にとどまっているかぎり、性暴力を完全に説明することも解決することもできない。資本の完全な批判は、ジェンダー化された従属をさらに大きな資本主義体制――たしかに経済的でもあるけれど、社会的、生態学的、精神的などでもある体制――に欠かせない一側面として理解しなければならず、この体制こそが適切な批判対象である。 p. 247

とりわけ関心を持って読めたのは、第6章にあたる「セックス、監獄主義、資本主義」だった。これは、女性の売買春をどのように取り扱うかという問題をフックに、フェミニストたちが自分たちが「勝った」らどうするべきかつまり権力を得たときにどうすべきかについて論じられている。資本主義批判とフェミニズムは切っても切り離せない関係にあると思う。著者も「問題はフェミニズムが労働者階級運動になれるかではなく、労働者階級運動がはたしてフェミニズムにならずにいられるのか、である(p. 245)」と述べる。

わたしの学生はポルノに大きな意味を見出していて、それをとても気にしていた。(中略)学生たちは、ほんとうの意味でインターネット・ポルノを観て育った最初の世代だったのだ。教室にいた男子のほとんどは、最初に望んだときに、あるいは望んでいなくても、初めての性体験を画面の前でしたはずだ。教室にいた女子のほとんどは、初めての性体験を画面の前か、そうでなければ画面の前で初めての性体験をした男子としたはずだ。 p. 56

アルゴリズムは、ユーザーがセックスそのものをあらかじめ決められたカテゴリーのなかで考えるようにしむける。(中略)「オンライン・ポルノのユーザーは、自分たちのポルノ使用のパターンがおおむね企業によってかたちづくられていることにかならずしも気づいていない。 p. 95

「ポルノについて学生と話すこと」では、わたしたちの性欲が企業(ないし一般人)の提供するポルノやそのカテゴライズによって規定されていること、ポルノにおける能動的な行為主体としての男性と「男性の欲望および身体的かつ精神的な支配を通じたその充足に媒介されている(p. 91)」女性という非対称的な描写、また若者に求められているのはよりよい性教育であることなどについて記されている。わたしたちはまだ自分の欲望を組み替えることができははずだし、より楽しく、平等で、自由なものを選ぶことができるはずだ。おそらく僕以降の世代の初めての性体験は「画面の前」であることに気にも留めていなかったので興味深かった。

オンラインの出会い系サービスは――なかでも、顔、身長、体重、年齢、人種、気の利いたキャッチフレーズなど必要最小限まで魅力を絞り込んだ Tinder や Grindr の抽象化されたインターフェースは――ほぼまちがいなくセクシュアリティの現状の最悪の部分を取りあげ、それを画面上で制度化したともいえる。 p. 120

マッチングアプリって選びまくる/選ばれまくる状況に身を投じることになりうるのでかなりやばいなと思う。「セックスをする権利」では、性についての好みが政治的に形成されることを強調している。たとえば、家父長制によるジェンダー規範など。そうした欲望は、わたしたち自身の意志によって変えられないわけでもないし、それは政治によって選ばれたものに逆らうことを意味する。

「教え子と寝ないこと」では、教員は教え子と寝るのではなく、その教え子を教える(教育する)べきなんじゃないかとめっちゃ当たり前のことを言っていて真っ当だった。

8月6日。

男たちの部屋

ファン・ユナ『男たちの部屋 韓国の「遊興店」とホモソーシャルな欲望』平凡社

目配せとセンス、周囲の関係性を隈なく把握し気を遣う仕事は、遊興店以外でも女性たちの役割として割り当てられた労働だ。これは女性の労働全般に要求されている。(中略)コミュニケーションをはじめとする関係構築能力が男性に対してはとくに重要視されず、そうした役割は他者である女性に任せるのが適当だとされている。 p. 151

本書は、著者であるファン・ユナによる修士論文「遊興産業の『一次』営業戦略と女性の『アガシ労働』」における議論をもとに書籍化されたもの。修論が著作になるってすごすぎ!

韓国における「遊興店」をはじめとする性産業のシステムや社会通念によって、どのように異性愛者男性が「男らしさ」を獲得しようとし性暴力を振るうようになるのか、あるいはどのように性売買産業に従事する女性従業員たちが性差別にもとづく抑圧や日常的な暴力にさらされているかについて記されている。特に、遊興店で働く女性たち(アガシ)へのインタビューが興味深かった。

(客がテーブルで期待することは?)情があって、声をかけてくれて、肌に触れてきておねだりされるのが好きですね。あの人らは金を出してるから、それなりの品位も保っておきたい。本性を出したいし甘えたいんだけど、おかしな人だって変に噂になるのは嫌なわけ。自分のメンツがあるから。だからアガシがリードしてくっついてくれるのが好き。情があるふうに。私はやりたくないんだけど、感情労働だし……。――ヘス p. 113

こんな感じでインタビューの内容が引用されていたんだけど、女性従事者たちのなまなましい体験にもとづく言葉が並んでいてかなりしんどくなった。

男性客に許された遊びは自身の購買力を通して「男になること」であり、その「男性性化」の過程に女性を性的に対象化し侵犯する暴力が内在している。 p. 37

男性性購買者たちは「面倒見、直感、情緒的な親密さ、か弱さなどのいわば女性的な諸要素を拒否し否定」することで男性らしさを獲得すると同時に、非男性で他人としての性売買女性との親密で心の通った関係を欲望し、その関係性から「心の安息所」を得ようとすると分析する。 p. 114

本書は、「他者―女性を排除し差別し軽蔑する言動(p. 53)」は男性化の基本的原理であるとし、男性の相互承認の場においては男性は差別と排除の主体となり、女性は客体化されるとする。タイトルにもなっている「男たちの部屋」は、お互いの男性性を「確認および承認し管理する空間(p. 58)」として機能するとされる。このような点から、(韓国社会における)男性の性購買はその集団性に特徴づけられるとされる。この行為体系は遊興店だけでなく社会全体にまで拡大しているというのがこの本の問題意識だと思う(もちろん性産業でそうした規範が許されるべきではない)。

8月7日。

滅ぼす 上

ミシェル・ウエルベック『滅ぼす 上』河出書房新社

プリュダンスが一瞬の躊躇もなく、口づけしてきて、舌を入れゆっくりと動かし、二人の舌はからみあった。ポールはそれが長く、永遠に続くかに思えた。

だが、終わった。この地上で永遠に続くものなどなにもない。 p. 304

性生活のままならなかったポール・レゾンがパートナーのプリュダンスとキスする描写、ボルテージが最高潮!って感じだったんだけど、あっさり終わって(一蹴されてて)めっちゃ笑った。「この地上で永遠に続くものなどなにもない」。これまでウエルベックの作品は『闘争領域の拡大』、『プラットフォーム』、『素粒子』、『地図と領土』を読んだことがあるんだけど、本作はそのどれらよりも性的な描写が控えめだった。あと、ポールが動物にフォーカスしたドキュメンタリー番組を人間を念頭に置きながら観ていたのが印象的だった。人間って動物つまりホモ・サピエンスであるということを最近あんまり意識してなかったなって思った。

第23世代の iPhone のくだり(p. 9)とか、露骨な性的誘惑のくだり(p. 94)とか、金融資本主義軽蔑のくだり(p. 104)とか、インターネットの2つの用途のくだり(p. 106)とか、フェイクニュースに浸りきった役を演じるのが嬉しいくだり(p. 162)とか、学のある人間のくだり(p. 229)とか、男性性の祝福のくだり(p. 230)とか、ウンコたちの交接のくだり(p. 274)とか、ひとりの男性として見られることのくだり(p.293)とか、けらけら笑えて楽しかった。

とにかくおもしろい~! 下巻も楽しみ!

8月13日。

滅ぼす 下

ミシェル・ウエルベック『滅ぼす 下』河出書房新社

二人の文化的な違いがどれほどのものであれ、彼らはとても古く、とても奇妙な、ある信仰を共有していた。その信仰は、あらゆる文明が崩壊し、ほとんどあらゆる信仰の消滅したあとも、生き延びたものである。 p. 160

「いずれにせよ、もうずいぶん前から、人間の行動に合理性を探し求めるのはあきらめている。そんなものは我々の仕事には必要ない。構造を見つけ出せばそれで十分なんだ。」ドゥラノ・デュランのほうをふたたび向いて、その目を見つめた。「君がひとつの構造を突きとめたことは間違いない。その結果、新しいテクノロジーの分野において地球上でもっとも重要な企業経営者たちの命を救ったんだ。君がいいことをしたのかどうかは、結局のところ、わたしにもわからない。でもそれが君のしたことだ。 p. 198

いま置かれている社会にげんなりしたり、これからどのように生きていけばいいのか見当がつかなかったりすることってよくあるけど、ウエルベックは『滅ぼす』でそうしたもやもやと真摯に向き合ってくれた。うれしい。上巻を読んでいるときは『闘争領域の拡大』を読んでいるときと同じ感覚で、けらけら笑って読み進めていたんだけど、この下巻あたりからその切実なまなざしを読解できるようになった。

ここ1年くらいで僕がうっすら感じたりブログに書いたりしていた、対人関係とりわけあなたとの二者関係をやっていくしかないみたいなこととか、合理性や効率性をがつがつ追い求めていったとしてその結果どう着地しようとしているの?みたいな問いかけとかについてもテーマのひとつになっていて、そうしたことについて再度考えるきっかけにもなった。

オーレリアンがマリーズとの関係から男性性を獲得していると感じるくだり(p. 54)とか、子どもの命を高く評価するつまり実際の行為に価値をおかないとするくだり(p. 92)とか、仕事や仕事で才能を開花させることを最重要視する時代のくだり(p. 141)とか、ポールがブリュダンスに電話したときに彼女に慰め、励ましてもらうことを期待していることに気づくくだり(p. 214)とか、印象的だった。

すばらしい小説だったし、邦訳が刊行されてすぐに読むことができて幸せ! いつもそうだけどウエルベックの小説読むといっそう彼女に会いたくなる! あと明日歯医者へ行こうと思います。

8月20日。

消費社会を問いなおす

貞包英之『消費社会を問いなおす』筑摩書房

ただしそれでもなお注意したいのは、私的な自由とその結果としての多様性を少なくともいまと同程度に実現する社会は、現時点では消費社会の他に想定しがたいことである。私的な選択の拡大は人びとのあいだの争いをたしかに増すかもしれない。しかしそうした衝突の可能性も含め、人びとが他の人びとと異なっていることを具体的に許容する力として本書では消費社会が肯定されるのである。 p. 214

本書では、繰り返される消費活動による歴史的プロセスとして「消費社会」を捉え、消費社会は個々人の選好を尊重し、多様性を促進させるという点でそれを肯定する立場をとっている。格差拡大や環境破壊といった問題を抱えるものの、消費社会を単なる乗り越えるべき「大きな敵」であるとはせず、改善の余地はある者の私たちが豊かさを手にすることのできる体制であると論じられている。

少なくとも(自分の知っている限り)現在の日本社会において、私的な自由とその結果としての多様性を担保できるのは消費社会の他に想像できないという主張はたしかにそうだと思う。現在の豊かさを維持しつつ、格差や環境問題を解決するための策として、ベーシックインカムが検討されて本書は閉じる。

第3章「私的空間の消費」で取り上げられていた高層マンションの規定する住まいのかたち、空間が「親密な関係にある人びとがプライバシーをさらけ出して暮らすこと」を理想化しているという話や、ドラッグストアの興隆が大衆に「医療化」を回避させ、「薬物化」を推し進めているという話が興味深かった。

8月31日。

消費は何を変えるのか

ダニエル・ミラー『消費は何を変えるのか 環境主義と政治主義を越えて』法政大学出版局

従来の消費に関する議論でもっとも問題が大きいのは、他人がいかに浅はかであるかを示すことで、自分が深遠だと主張したい者が数多くいることなのです。 p. 159

文化人類学者である著者は、トリニダード島やロンドンでのフィールドワークを通して、人びとの消費行動を安易に個人主義や資本主義と結びつけるのではなく、独立した文化あるいは「社会的なプロセス」として捉えようとしている。ここでは、企業の広告に煽られることで購買行動をとる単純な消費者像は想定されておらず、より能動的な存在であるとされる。

第3章「なぜ買い物をするの?」における子どもを連れた買い物の記述はまさにフィールドワークという感じで読みごたえがあった。「購買は商業的な圧力によってではなく、規範そのものに魅力があるためにおこなわれます(p. 107)」。

つまりデニムが社会的に快適であるという見方が、文化的な概念ではなく、デニムそのものの自然な性質のようにみえてくるのです。 p. 146

第4章「なぜデニムなの?」では、最も着用されている衣類のひとつであるブルージンズに記号的な意味が付与されていないというところから、ウェブレンとかボードリヤールの主張だけでは「消費」を捉えることってできないよねという疑問を投げかけていておもしろい。

わたしの知っている何組かの家族では、一流大学を卒業した優秀な子どもが、ビジネスの経験がないにもかかわらず、経営コンサルタントとして雇われていrきました。経済学の専門職の場合と同じように、もっとも知的で立派な人物が、相対的に無能なロボットに変えられてしまうのです。 p.185

かなり激しいこと書いてある。本書はモデル化や再現可能性を志す典型的な経済学に対して批判的で、文化的な実践を自然科学を模倣した方法で分析しようとしてもそれは不適切であるだろうと指摘している。あと、コンサルタント業は「流行産業」で、総体として決して良いものは生み出していないとも記述されていた。

9月4日。

はじめての人類学

奥野克巳『はじめての人類学』講談社

ここで彼は、なぜ日記をつけるのかという意義を自らに向けて問うています。注目すべきは、マリノフスキが、仕事と同じように、人生に深みを加えるために日記を書くのだと宣言していることです。 p. 54

インゴルドは、「徒歩旅行」のような「ライン」こそが、生きる道に等しいものだと言います。彼は、読者もまた「徒歩旅行」をする旅人になり、知識を積み上げながら「沿って進んでいく」ことを勧めているのです。要するに、生きているというのは、予定調和的に物事が進んでいくことではありません。偶発的に「何か」と出合い、その影響を受けながら、自分でも思いもしなかった「ライン」を描いていくことなのです。 p.188

アルバイト先の上司に紹介されて読んだ。ちょうど人類学者による著作『消費社会を問いなおす』を読んだばかりだったし、前期に履修した講義でもマリノフスキーやレヴィ=ストロースについて取り上げられていたので、そういう機運があった。

マリノフスキー、レヴィ=ストロース、ボアズ、インゴルドという4名の人類学者による仕事の概要について記されていてとても読みやすかった。マリノフスキーがフィールドワークの最中に記していた日記について触れていたところや、人類学におけるインゴルドの位置づけに関するパートが特にかっこよかった。

9月9日。

ゼロ・トゥ・ワン

ピーター・ティール『ゼロ・トゥ・ワン 君はゼロから何を生み出せるか』NHK出版

アメリカ人は競争を崇拝し、競争のおかげで社会主義国と違って自分たちは配給の列に並ばずにすむのだと思っている。でも実際には、資本主義と競争は対極にある。資本主義は資本の蓄積を前提に成り立つのに、完全競争下ではすべての収益が消滅する。だから起業家ならこう肝に銘じるべきだ。永続的な価値を創造してそれを取り込むためには、差別化のないコモディティ・ビジネスを行なってはならない。(第3章「幸福な企業はみなそれぞれ違う」)

トーナメントを勝ち進むにつれて、それはますますひどくなる。エリート学生はやる気満々で階段を昇り続けるけれど、ある時点で競争に敗れ夢が砕かれる。高校時代には大きな夢を持っていても、大学では同じく優秀な学生がコンサルティングや投資銀行といった、いわゆる一流の就職先を目指してしのぎを削る中に埋没してしまう。みんなと同じになるために、学生(あるいはその家族)は、インフレ以上に値上がりを続ける、何万ドルもの学費を支払っている。なぜ僕たちはそんなことをしているのだろう?(第4章「イデオロギーとしての競争」)

大学の優等生は、マイナーで珍しいスキルをたくさん集めて未来へのヘッジをかけることばかり考えている。どの大学も「卓越」を信じ、専攻にかかわらずアルファベット順に並んだ分厚い履修案内を発行して「何をしてもかまわないが、とにかくうまくやれ」と学生に保険をかけさせているようだ。だけどそれは大きな間違いだ。重要なのは「何をするか」だ。自分の得意なことにあくまでも集中すべきだし、その前に、それが将来価値を持つかどうかを真剣に考えた方がいい。(第7章「カネの流れを追え」)

でも、起業家は究極の献身の文化を真剣に受け止めるべきだ。生ぬるい仕事ぶりは心が健全なしるしだろうか? 単なる仕事と割り切った態度が、まともなやり方なのだろうか? カルトの対極は、アクセンチュアのようなコンサルティングファームだ。彼らに組織固有の際立った使命はなく、コンサルタントの入れ替わりが激しいために、長期的なつながりはまったく築けない。(第10章「マフィアの力学」)

「手ごろなビジネス書を読んでみたい」と呟いたら、アルバイト先の上司が本書を勧めてくれた。

読みやすくておもしろかった。ピーター・ティールはビジネス書的なかなりアツい文章を書く。久しぶりに kindle で本を読んだんだけど、こんなかんたんな感想しか出てこない。あと kindle だとコピペしやすいから引用だけで満足してしまうところある。

9月16日。

なぜ美を気にかけるのか

ドミニク・マカイヴァー・ロペス、ベンス・ナナイ、ニック・リグル『なぜ美を気にかけるのか:感性的生活からの哲学入門』勁草書房

あなたは複雑で、きめ細やかな、そして重要な美的生活を、毎日編成しながら送っている。だが美的価値(aesthetic value)とはそもそも何なのか。なぜわたしたちは美的価値を気にかけるべきなのか。美的生活を送ることの意味はどこにあるのか。そして、あなたは自分の美的生活をどのように送っていくべきなのか。 p. 7

美的価値の規範問題、つまり「美的なものはなぜ大事なのか」という問いについて、3名の分析美学の研究者がそれぞれのアプローチで取り組んでいる。伝統的には快楽主義、つまり美的に良いものは快を与えてくれるから良いのだという考え方が主流だったが、ロペスは「多様性」、ナナイは「達成」、リグルは「共同体」の観点からいくつかの答えを提案していると述べられている。哲学の初学者向けであると説明されており、たしかに易しい説明ではあるものの、哲学の文章に慣れていないのもあって、時間をかけて読まないと議論の内容が頭に入ってこなかった。

ここ最近で「分析美学」という学問領域について知った。というのも、分析美学の若手研究者や大学院生がしばしばインターネットに論文のサマリーや論考をアップしており、そこで取り組まれている問題が素朴でキャッチ―なものが多いので、気になって目を通す、ということが頻繁にあった。だから、研究者がアウトリーチ活動をめちゃくちゃやっているという印象もある学問領域というイメージもある。また、哲学について難解な言葉を並べ立てる自分では分かりえない学問だというイメージがあるのだが、分析美学ではなるべく平易な言葉で問題に取り組もうとする論者の気概が感じられて手に取りやすい。この点については、本書の訳者も「できるだけ誤解を避け、明確な書き方をする」のが分析美学の議論のスタイルだと述べている

このあいだ長野市へ遊びに行ったんだけど、その中央通りにある「皎天舎」という書店で本書を見つけた。近所にあったら嬉しすぎる感じの本屋だった。

個性とは、固定的なものでもないし、孤立したものでもない。あなたの個性は動的なものであり――つまりそれは動き続ける複雑な存在だということだ――、社会的なものである。 p. 75

美的生活、個性とスタイル、自由と共同体――これらはすべてわたしたちが自分たちのために、そして互いのために、育んでいくものである。これらは必ずしも育まなければならないものではないが、育むと、ものごとはずっと良くなる。 p. 91

3人の論者の中でも、食べ物と食事実践を切り口に、美的価値と美的評価実践について論じていた(上記の説明だと「共同体」の立場にあたる)ニック・リグルの論述が特に興味深かった。というか好きだった。読みやすかったってのもあるし、あと「あなたとわたし」という論点に持っていかれると気に入りがちという話もある。

9月20日。