もう延長線上にはいない

大学からも構内でのマスクの着用を義務としないという通達が出された。これまで抱いていた、2020年の延長線上に生きているという感覚がほとんどなくなった。わたし(たち)にとって2020は過去のものになった。

2020年の延長線上に生きているという感覚がある。過去の自分を思い起こすときそれは2019年以前で、たった今の自分は2020年とシームレスに繋がっているよなとマルチメディア論の課題を提出して晩御飯に取り掛かる前に考えていた。順当に年を重ねたらこのような感覚に陥るものなのかもしれないし、大学進学とコロナ禍を同時に体験したから味わっているものなのかもしれない。剥奪感を押し付けたいので後者として捉えている。その年を象徴するような出来事が少ない、というかあまり思い当たるものがなく、授業もアルバイトも気晴らしもすべてスマートフォンやタブレット端末で体験してきた数年間だったので、体験とか記憶が身体と結びついていない。可能であれば同世代の人とこの感覚を共有したいのだけれど、現実的にむずかしい。どうやって乗りこなしているのでしょうか。

延長線上にいる - 大胆な動き

2020が過去のものになったからこそ、あの剝奪感がはっきりとした形をして立ち現れている・くるような気がする。この感覚を共有できるのってあなた(たち)だけだ。あの苦しさについてもう一度考えることで得られることってあるかな?

先日読売新聞オンラインで公開されたこの記事を読んで涙が止まらなかった。偶然通学し続けることができているだけ。教室が学生で埋まる前に着席することに長けている。授業と課題に熱中できるほど他にすることがなかった。

これは無責任な言葉だし勝手に感情移入しているだけなんだけど、通学できなくなってしまった彼が少しでもキャンパスで授業を受けることができたら、僕は嬉しい。

対面授業 - 大胆な動き

彼はもう大学に行けるようになったのかな。ここで取り上げられていない無数の彼・彼女らもキャンパスでのびのび学ぶことができていたらいい。そうしようね。

あるミュージシャンがTwitterで「自分がコロナ禍で学生だったら自殺していた」という旨の投稿をしていたのを目にした。自分は誰かが死にたくなるくらいの状況にいるのかと一瞬塞ぎ込みかけたが、俺はまだ慢性的に死にたいと思うほど弱ってはいないので、俺の方が強いという結論を出してこの件について考えることをやめた。

味噌汁は昼に作れ - 大胆な動き

ミュージシャンによる投稿は消されていた。そのとき撮ったスクリーンショットは残ってるかも。そんなのもう消してしまえよ。2020をなんとかやり過ごすことができて、おれ(たち)はもうその延長線上にはいない。はつらつになったり、しょんぼりしたり、なんかいろいろあるけど、やっていくしかない。